2015.2.19 |
|
騒音の中でも集中できる人 |
|
|
大徳寺仙院閑栖、尾関宗園老師の心に響く言葉より…
仕事でも勉強でも、やろうという意欲はあるのに、どうも長続きしないという人がいる。
仕事をしている最中でも、いろいろなことが頭に浮かんでくる。
すると、そちらのほうが気になり、今自分がやっていることに身が入らなくなる。
また、せっかく落ち着いて勉強でもしようとしているとき、やたらと物音が気になってイライラし、どうにもならないという人がいる。
心理学では、ものごとがうまくいかない原因が自分自身にあるのに、それを認めるのがいやなため、他の人や物のせいにするという“すりかえ”を「自己合理化」というそうである。
「こんなうるさい環境では、とても集中することなどできやしない!」
と言って、みんな環境のせいにしてしまう。
臨済禅師が言ったことばがある。
「喧(さわがしき)をいとい、静(しずけさ)を求むるは、これ外道(げどう)の法なり」
静かなところへ行けば、落ち着いて勉強できるだろうと考えるのは間違っている。
その証拠に、自分が興味を抱いたもの、おもしろいと思ったものは、どんなに周りがうるさくとも、ちっとも気にならない。
たとえば、電車の中で一心不乱に本を読んでいる人がたくさんいる。
あんなうるさい場所は、めったにあるものではない。
ゴウゴウ、ガタガタ、おまけにスピーカーで車内放送をがなりたてる。
ところが、当のご本人には、そんな騒音などすこしも耳に入ってこない。
それどころではない。
あのうるさい雑音の中でグウグウ寝ている人だっている。
なんのことはない。
騒音の中でも、けっこう自由自在にやっているのだ。
中国明末に洪自誠(こうじせい)が著した『菜根譚(さいこんたん)』の中に、こんなことが書かれている。
「静かなところでしか保てないような心の静けさは、ほんとうの静けさではない。
目まぐるしいところでも心を静かに保つことができるようになってこそ、本性の真の境地である。
また、安楽な環境の中でしか感じられないような心の楽しみは、ほんとうの楽しみではない。
苦しい環境の中でも心を楽しく保つことができるようになってこそ、心の真のはたらきをみることができる」
静かな環境が手に入ればもっと自分の能力が向上し、実力を発揮することができるに違いないとか、仕事でも勉強でも、集中力を持続できないのは環境のせいだなどと思っているあいだは、いつまでたっても絶対に伸びることはない。
伸びないどころではない。
ますます落ち込むばかりである。
なぜなら自己の内に眠っている可能性を引き出し、かきたて、燃え上がらせるものはあくまで自分自身であるのに、その自分がほかの景色に目を奪われ、それによって、人生を重荷に感じているようでは、せっかくの可能性が目を覚ます機会はなくなるからだ。
自分が今、為そうとしていることに懸命になっていれば、ほかのことに心をとらわれることはない。
仕事でも勉強でも、楽しむ気持ちさえもてれば、ほかのことが目や耳に入ってきてもとらわれることがない。
そのとき、可能性の花が開く。
『心配するな、なんとかなる』PHP研究所
子供部屋が日本の家に普及してから、家族のコミュニケーションが取りにくくなったという話がある。
家に帰ってから、親にまったく会うことなく自室に直行し、自室で食事をとる子供もいるという。
家族間の挨拶が少なくなり、子供は自分の自室にこもって遊ぶようになる。
昔の日本の伝統的な家では、部屋と部屋の仕切りは、ふすまや障子(しょうじ)であり、互いの部屋の物音がよく聞こえ、必然的に他の家族に対して配慮することを学んだ。
当然、子供部屋や個室もなく、大部屋で同居はあたりまえだった。
そして、小さな弟や妹が騒いでいる隣で勉強するのは普通のこと。
東京オリンピックでは、レスリングは金メダルを5個取った。
それは、当時のレスリング協会、八田一朗会長の、厳しくてユニークな選手育成のたまものと言われている。
たとえば、外国に遠征に行ったとき、「夜眠れずに調子が悪かった」というような言い訳をさせないため、日本の合宿所では夜寝るときも、電気や、テレビ、音楽をつけっぱなしにしていたという。
どんなところに行っても、どんな状態になっても、寝れるように訓練したのだ。
子供部屋が日本の家庭に普及してから、悪条件の中で育つという、精神的なタフさが弱くなってきたともいえる。
騒音の中でも集中できる人でありたい。 |
|