2015.1.16 |
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したたかな人間にならない |
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鍵山秀三郎氏の心に響く言葉より…
実践を通して学ぶ。
このことに、異論のある人はいないと思います。
ところが、実践だけで生きてきた人は、どうしてもしたたかな人間になりやすい傾向があります。
「オレはこんな修羅場をくぐり抜けてきた」
「オレは社会の表も裏も知り尽くしている」
「いまでは、怖いものが何もない」
これでは、せっかく積み重ねてきた体験も水の泡。
表面的には、強くなったように見えても、体験がひとつも生かさせていないからです。
たとえどんな険しい体験をしてきたとしても、したたかな人間になってはいけません。
「オレはこんな体験をしてきたから、少々のことではびくともしないぞ」
というような強がりを、勲章にしているような人は最低の人間です。
人間はいくつになっても、純粋でなければいけません。
小さなことに対しても、傷つきやすい感受性豊かな人間でなければいけません。
そういう人間だけが、周囲の人を温かく包み込む資格があります。
世の中を憂鬱(ゆううつ)にし、暗くしているのは、このしたたかな人間です。
『困ったことばかりでも、何かひとつはよいことがある。』PHP
「したたかな人」とは、一筋縄ではいかない、強くて手強そうな人。
あまりいい意味では使われないが、生きる上では、ある程度このしたたかさもなければいけない。
特に善人はそうだが、だまされてしまうからだ。
しかし、それを自慢のように言って威張るのなら、その時点で恥ずかしいレベルの低い人となる。
数多くの失敗をして、だまされ、人間の裏表を知ることも必要だ。
しかし、それを全面に出した途端、卑しくて、品性下劣な人間となってしまう。
品性下劣な人間は、顔に出る。
人として厚みがあって、重みがあって、深みがある人は、どんな苦労も、大変さも表には出さない。
それらの経験が、いぶし銀のように自分の魂や身体に刻まれているからだ。
したたかさを誇る人であってはいけない。 |
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