2015.1.5 |
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他人からの迷惑 |
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ひろさちや氏の心に響く言葉より…
新幹線の列車の中で、子どもをギャアギャア泣かせている母親がいる。
他人の迷惑も考えずに…と、腹立たしくなる。
私たち古い世代の人間は、「他人に迷惑をかけてはいけない」と教えられて育った。
だが、仏教の考え方は、それとはちょっとちがうのである。
他人に迷惑をかけまいとしている人は、たしかに立派な人である。
非難する余地はない。
けれども、その人は、他人から受ける迷惑をなかなか許せないのではなかろうか。
自分は一生懸命、迷惑をかけないように努力しているのに、おまえはけしからん…といった気になる。
他人に迷惑をかけまい、かけまいと努力していると、ついつい他人から迷惑をかけられたくないといった気持ちになる。
それが困った点である。
仏教が言っているのは、人間は他人に迷惑をかけずには生きられない存在である、ということだ。
一人が大学に合格すれば、確実に一人はその大学に入れない。
誰かが部長になると、他人はなれない。
満員電車に一人が乗れば、その人は他の乗客を窮屈にさせている。
われわれは存在しているだけで、他人に迷惑をかけているのだ。
だから、わたしたちは、他人から受ける迷惑を耐え忍べ、と仏教は教えている。
他人からの迷惑をじっと耐え忍ぶことを、
『忍辱(にんにく)』
と呼ぶ。
仏教は、「他人に迷惑をかけるな」ではなく、「他人からの迷惑を耐え忍べ」と教えている。
しかし、無際限に迷惑を耐え忍ぶべきであろうか…。
どうも、そこのところがむずかしい。
『がんばらない、がんばらない (PHP文庫)』PHP文庫
忍辱とは、誰になにをされても言われても、イライラしたり怒らない修行、究極的には気にならないようにすること。
また、逆に言うなら、ほめられても、有頂天になったり、威張ったりしないこと。
嫌な事に耐えるとか、我慢するというのは、まだ気にしている証拠。
気にならなくなれば、どちらでもよくなる。
気にならないという許容度の幅が広い人は、人間の幅も広い人。
それを有徳の人とも、人格者ともいう。
とかく、正義感を振りかざす人は、他人を許すことができない、許容範囲の狭い人。
何事に対しても、イライラせず、おおらかな人でありたい。 |
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