2014.11.19 |
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ウメボシマン |
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小学校教諭、平光雄氏の心に響く言葉より…
以前、学級崩壊に近い状態のクラスを、翌年そのまま受け継いだことがあった。
新年度、子どもたちの荒れてしまった心の立て直しが急務だった。
子どもたちの心に「伝わる」「残る」確かな道徳指導が必須であった。
しかし、ありきたりの勧善懲悪的な「よい話」は、こういう子たちの子の心には入らないだろう。
そうした話は聞く気持ちさえ持っていないかもしれない。
もちろん、長話は無駄だ。
「少ない言葉でありながら、確かな効果がある方法」が必要だと思った。
それらを前提とした創意工夫が必要だった。
その結果生まれたのが、「紙芝居」であり、「携帯フレーズ」だった。
絵でイメージを残し、短フレーズで徳目を日常的に意識化させるという方法である。
大きな効果があった。
そのとき確信したのは、どんな荒れた感じや自堕落な感じの子であっても「成長への欲求」は、しっかり持っているということだった。
【奉仕 「自分だけのこと」から卒業する】
新しい学級を担当して、こういう場面はよくあった。
「そこにゴミが落ちてるよ」
「ぼくのじゃないよ」
「学級文庫、ぐちゃぐちゃじゃないか」
「私はちゃんと返したよ」
よくない現状は、自分の責任ではない、ということだ。
もちろん、そうかもしれない。
しかし、自分が生活している場だ。
こうしたことだって「自分のこと」という認識を持たせたい。
■紙芝居「ウメボシマンは禁止だよ」
「たとえば、教室にゴミが落ちていて『そこ、ゴミ落ちてるよ』と言うと、こんなふうに答える子、いるよね。『私じゃないよ』って」
「確かにそうかもしれない。でもこの答えは『正しい』のかな?自分がしたことじゃない、だけど教室は汚いまま。気づいても自分のせいじゃないからって、『自分のこと』にしかエネルギーを注げないんじゃ、心はこのウメボシのように小さいんだよ。エネルギーは全部『自分のため』だけ」
「そういう人を『ウメボシマン』と名付けます」(笑)
「学級もウメボシマンが多いと、すごく嫌な集団になるよな」
成長っていうのは、自分のことだけじゃなくて、だんだん周りにもエネルギーを注げるようになること。
「成長すると、このウメボシが、イチゴ、リンゴ、スイカって大きくなっていくんだ。イチゴならすぐ横の子や親友まで。リンゴならグループから学級全体、スイカなら学校全体って感じかな。こんなふうにエネルギーを注げる範囲が広がっていくことが成長なんだ。
伝記に出てくる偉人なんかは、もっと大きくって、世界とか人類とかまでこの矢印が伸びた人なんだ。
みんな最初はウメボシマンだけど、次第に大きくなっていったんだ。
みんなもウメボシマンから変身していこう。
この指導以後、折あるごとに「ウメボシマン」が携帯フレーズとなって、「あ、ウメボシマンやっちゃったな!」「○くん、ウメボシマン!」などとユーモアを交えたかたちで、「奉仕」という面での心の成長を図っていくことができるのである。
利己的な心を利他、「奉仕」の方向に導くのは至難のことだ。
しかし、それも当然で、「奉仕」の心は、人として最終的に目指す徳目であるともいえるからだ。
だからこそ、その方向への気持ちが簡単に消えないような、「自分を広げていく」というイメージが大切なのだ。
子どもたちは、皆「成長」という言葉に反応する。
表面的にはどうであれ、どの子も「成長」への欲求を持っている。
そこにアプローチしたのがこの実践である。
『子どもたちが身を乗り出して聞く道徳の話』致知出版社
どんなにいい内容の話であっても、あるいは企業のこだわりの優れた商品にしても、それが聴衆や顧客に伝わらなければ、無いのと一緒。
だからこそ、大事なのが伝える技術。
情報過多の現代、伝えるのに効果的なのが、絵や動画といった具体的に想像できる「ビジュアルなイメージ」や、心に響く「短いフレーズ」。
自分のことだけしか考えられないような利己的で小さな人間は、「ウメボシマン」。
身近な二、三人まで目を配れるのが、「イチゴマン」。
「リンゴマン」、「スイカマン」とだんだん大きな人間になってくる。
公共の場において、平気でゴミを捨てる大人がいる。
心の成長は、子どもだけでなく大人にも必要だ。
大人になってもウメボシマンでは恥ずかしい。 |
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