2014.10.31 |
|
しなやかな感性 |
|
|
臨済宗全生庵住職、平井正修氏の心に響く言葉より…
同期入社の同僚が重要プロジェクトのスタッフに抜擢(ばってき)された、後輩が自分より早く昇進した…。
よくある話ですが、当事者になったら、心穏やかではいられなくなるのではありませんか?
妬(ねた)み、嫉(そね)み、憎しみ、といった感情が湧き上がってくる。
また、テレビでアスリートたちを観ていて思うことがあります。
どんな競技でも、ライバルの失敗を願う気持ちはないのだろうか?…と。
妬み、嫉み、憎しみにしても、敵の失敗を願う気持ちにしても、持たないほうがいい、そんなふうに思わないほうがいいに決まっています。
誰もそれはわかっています。
しかし、思ってしまうのも、また、人の心の在り様なのです。
それなのに、「思ってはいけない」と感情を抑えつけたり、思った自分をさもしい、後ろめたい、恥ずかしい…と感じたりします。
その結果、心が騒ぎ、悩みや苦しみが生じるのです。
抑えようとするのも、思った自分を気にするのも、そこに執着している、ということです。
自然に湧き上がってくるのなら、思ったらいいじゃないですか。
それは心にまかせて、あとは手放せばいい。
水面に石を投げ込めば波紋が立ちますが、放っておけば波紋はしだいにおさまって、もとの静かな水面に戻ります。
波紋を鎮めようとして手を入れたりすれば、新たな波紋ができるだけです。
これと同じ。
執着せずに、「まかせて、手放(てばな)す」とはそういうことです。
「不落因果(ふらくいんが) 不昧因果(ふまいいんが)」という禅語があります。
因果に落ちまいと考えてはいけない、因果をくらまさない(ごまかさない)ことが大切だ、といった意味ですが、思ってはいけないと考えたら、余計それにとらわれることになります。
湧き上がる感情はごまかさないでいったん受け入れてから、自然のうちに手放していけばいいのです。
『花のように、生きる。 美しく咲き、香り、実るための禅の教え』幻冬舎
二人の若い禅僧の話がある。
あるとき、二人の禅僧が川を渡ろうと岸に来た時、一人の若い女性が向う岸に渡れなくて困っていた。
すると見かねた一人の禅僧が、さっさと女性を背負い、向う岸に渡って下ろし、何事もなかったようにまた歩き始めた。
その一部始終を見ていたもう一人の禅僧が、「お前は修業中の身として、女性を背負ったりして恥ずかしくないのか」となじった。
すると、女性を助けた禅僧は、「お前はまだあの女性を背負っているのか」と答えたという。
「放下著(ほうげしゃく)」という禅語がある。
こだわりを捨ててしまえ、放り投げろということだ。
我々は、色々なものを後生大事に抱え込んでしまう。
「こだわり」「しがらみ」「嫉妬(しっと)」「妬(ねた)み」「恨(うら)み」「怒り」「憎しみ」…。
「今泣いたカラスがもう笑う」という言葉がある。
子どもは、泣いていても、面白いことがあれば、すぐに機嫌を直して笑う。
子どもはこだわりがないから、大人のようにうじうじと前の感情を引きずらない。
子どものようなしなやかな感性を取り戻したい。 |
|