2014.7.27 |
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自制心がある人 |
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谷沢永一氏の心に響く言葉より…
「好感が持てる」というのは人間評価の最たるものである。
したがって、好感が持てる人は信頼できると言っていい。
では、どういう人が好感を持たれるのか。
その第一条件は自制心だと思う。
好感が持てる人には強い自制心がある。
自制心が強いかどうかが、人間評価の最後の最後を決める。
人間は元来が、我利我欲(がりがよく)、私利私欲の生き物だ。
常に「自分の得が多いように」と考える。
このおのれの欲をグッと抑えるのが自制心である。
もっとも、「欲を抑え込むこと」は一個の人間として社会的存在であり得る条件であり、まったく野放図(のほうず)に欲望を発揮する人は皆無だろう。
もし、そんな人間がいたとしても、社会からはじき飛ばされる。
それでも、人によって強弱がある。
自制心が弱い人はわがまま、自分勝手と映り、自制心が強い人は人格者と映る。
いろいろな資質は別にして、自制心のある人は信頼できると思う。
しかし、いつまでもそれがその人にあると思ったら間違いである。
ある程度歳を取ると、自制心はどうしたって弛(ゆる)む。
また、年齢だけでなく境遇や立場によっても自制心が弱まる人もいる。
「係長としては非常に立派であったのに、課長になったらおかしくなった」
「部長としては頼もしい人が、副社長になったらもうどうしようもなくなった」
こういうケースは係長としての自制心、部長としての自制心はあっても、課長としての自制心、副社長としての自制心はないということだ。
つまり、人間としての自制心ではなく、ポジションにおける自制心であったわけだ。
そこを勘違いして、その人の自制心と思ったら大変な見込み違いになる。
では、人間としての自制心と、境遇やポジションによる自制心の見分け方はあるかと問われたら、ほとんど不可能だと答えるしかない。
ただ、自制心とよく似て非なる「皮かぶり」であれば、察知できる可能性はある。
「欲しがりません勝つまでは」で、局長になるまでは我慢する。
そして、局長になった瞬間、「さあ、これでわが望みを果たした」とタガが外れる。
そういう人は、必ずどこかで「局長になるまでは」というような気分を口にしているはずだ。
平素の言葉の端々(はしばし)にアンテナを張って、わずかなひと言を聞き逃さなければ、「皮かぶり」は見つけられる。
いずれにしても、自制心が極端に弱い人は信頼できない。
それどころか、近くにいたらどんなとばっちりを食うかわからない。
そういう人には近づかないことである。
『人間の見分け方』PHP文庫
自制心とは、セルフコントロールのことだが、自分で自分を律すること。
些細なことで怒ったり、キレたりする人はセルフコントロールができていない。
また、威張(いば)ったり、愚痴ったり、不平不満を言ったり、大きなことを言う人もセルフコントロールができない。
そして、そういう人は、人からは好かれない。
人はどこかで弛(ゆる)みが出たとき、タガがはずれ、セルフコントロールができなくなる。
セルフコントロールができない人は、自分の利や得を先に考える。
中国の六然の中に、次のような言葉がある。
「得意澹然(とくいたんぜん)」
「失意泰然(しついたいぜん)」
得意のとき、調子のよいとき、有頂天になったときには、おごりたかぶったり、傲慢(ごうまん)にならず、淡々としていること。
失意にあるとき、物事がうまくいかないときには、がっかりしたり自暴自棄になったりせず、ゆったりと構えていること。
自制心のある人でありたい。 |
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