2014.7.9 |
|
見えないものがだんだん見えてくる |
|
|
石川洋氏の心に響く言葉より…
今年の春のことでした。
早朝、友人の禅寺を訪ねようと外へ出ると、疎水公園で散った桜の花びらを懸命に掃いている年配のご婦人が目にとまりましたので、私は「ありがとうございます」と合掌し、声をかけました。
「おばあちゃん、湿った桜を掃くのは大変でございましょう。お疲れになりませんか」
「いやあ、おかげさまで、ありがたいことだと思ってますよ」
一瞬、意味を解しかねて、私は尋ねました。
「桜の花を掃くのが、なんでおかげさまで、ありがたいんですか」
「あんたのような若いお年ではわからないと思うけどな…」
ご婦人は、ほほ笑みながらいいました。
もういいかげん年だと思っている私も、このおばあさんからみればまだ若いのでしょう。
「私らはな、年だから、来年になったらこの桜はもう見られないかもしれない。でもな、今年は元気でこの疎水の桜を見せていただいて、そして掃かせていただいている。おかげさまでな、ありがたいことだよ」
私は、このご婦人のことばに打たれました。
桜の命に自分の命を重ねて見ながら、命の尊さ、おかげのありがたさをいっている深いことばだと感じ入ったのです。
その日、私が訪ねた先の禅寺でも、境内の参道が立派な桜の並木道になっていて、その美しさは実に見事なものです。
たまたまそこでも一人の年配のご婦人が散った桜の花びらを掃いていましたので、私はそのご婦人に声をかけ、桜の美しさをほめました。
「おばあちゃん、ここの桜もきれいですね」
するとご婦人は、花びらを掃きながら、木も見上げず、うつむいたままでいいました。
「はあ、きれいかね」
「おばあちゃん、きれいじゃないですか。今年の桜はちょっと早いけど、きれいですよ」
「うん、きれいかもしれないけど、掃くのは私だからね」
ご婦人は、無表情に、ポツンといいました。
掃くのは大変だという思いがあるからでしょう。
このご婦人は、散った桜の花びらしか見ていなのです。
桜の命のはなかなさも、それゆえの美しさも目に入っておりません。
あるとき、知り合いの医者と話をしていて、わたしがちらっとそのことにふれると、その先生はポンと手を叩き、「そのおばあさんのことばはすばらしいですよ。いただけますね」
といい、続けてこうおっしゃいました。
「人間の成長というのはね、見えないものがだんだん見えてくることなんです」
人間生活のなかで、いろいろなものを観察し、記憶し、信頼し、それらを積み重ねていくことによって、見えないものが見えるようになってきます。
人間のこころの落ち着き、安定は、そのときにこそ生まれてくるのです。
いま現在、生きていることがありがたいといえる人には、あの世もこの世もない、いまを生きているという満足感があります。
その安心感は、見えないものをどこかで信じている、おかげがわかるということから生まれてくるのではないでしょうか。
その安心感こそが人生を幸せに導いていくのだと、私は思っております。
『叶力(かのうりょく)』サンマーク出版
目に見えないものは一切信じない人がいる。
しかし、「愛」も、「おかげさま」も、「幸せ」も、目には見えないが確かに存在している。
大事なことは、「愛」や「おかげさま」や「幸せ」という現象があるのではなく、それを感じる自分がいる、ということ。
人は、辛いことや悲しいこと困難なことが自分に起きたとき、つい、グチや泣き言をいってしまうことが多い。
それは、きれいな桜の木を見ずに、散った花びらしか見ていないのと同じこと。
本当は、ないものを数えるのではなく、いまあるものに感謝することが大事なのに、そのことに気づかない。
そして、みな生かされていることに気づくこと。
「人間の成長とは、見えないものがだんだん見えてくること」
年を重ねれば重ねるほど、見えないものがだんだん見えてくる人生でありたい。 |
|