2014.6.14 |
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ほんとうのカリスマとは |
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小林正観さんの心に響く言葉より…
私たちの人生の目的は、最終的には「喜ばれる存在になること」というところに尽きると思います。
その究極の目的に至るまでに、3×33%つまり、99%までに到達する必要がどうもあるようです。
一つ目の段階(33%までの段階)は、どんなことがあっても不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言わないことです。
例えば、コップに水が半分入っていたとします。
それを「半分しかないじゃないか」ととらえたら、それは全て、不幸で不機嫌で不愉快な出来事になります。
しかし、それを次の段階(66%までの成長段階)にもっていき、「半分も残っていて嬉しい」「半分もあってくれて幸せ」というふうに、「嬉しい」「楽しい」「幸せ」というかたちで物事をとらえらえるようになったら、それが66%までのところに到達した、ということになります。
三番目の段階(99%までの段階)は、その同じ現象に対して感謝ができるということです。
どんなことがあっても、どんな事件があっても、どんな現象があっても、それを一、二、三の処理で99%まで処理できる、ということを問われているのです。
病気の場合もそう。
事故の場合でもそう。
一般的にいわれる災難というものも、みんなそうです。
そういうものも含めて、それが恨み言ではなく、喜びであり、さらには感謝の対象になるんだ、というところまで処理していくことが、この人生で私たちに与えられた課題らしいのです。
それでは、残りの1%はいったい何なのか、ということになりますが、この1%は私たちが自分の力で得られるものではどうもないようです。
その残りの1%とは、「感謝される存在になること」です。
もしある人が、全くその人の口から、不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句・非難・攻撃・中傷・つらい・悲しい・苦しい・つまらないというような言葉を出さなかったとします。
そして、その人の口から出てくる言葉は常に「嬉しい」「楽しい」「幸せ」「大好き」「愛してる」などの言葉に満ちているとします。
どんなことがあっても、その人からは、愚痴や泣き言、つらい、悲しいという言葉は出てこないわけですから、その人のそばにいると温かく、安らかな気持ちになることでしょう。
さらに、目の前の現象について、常に喜びや楽しさを見いだす達人なわけですから、「この中にこんな楽しいことがある」「この中にはこんな面白いことがある」「この中にはこんな喜びがあるではありませんか」というふうに言い続ける人は、自分や仲間にとって大変頼もしく、さらに楽しい存在になります。
その人のそばにいると心地良い、温かい、安らぐ、安心できるというようなことになります。
ですから、そういう温かい言葉や肯定的な言葉ばかりを言っている人のそばには人が集まってきます。
温かさや明るさが常にあるからです。
「カリスマ」というのは、「教祖」というふうな意味に使われていますが、本当は、「明るい方向を指し示す人」のことででした。
暗闇の中で、「あそこに出口があるから、私はあそこに行くよ」というふうに言ってくれる人を、実は「カリスマ」と呼んだのです。
「カリスマ」の「カリ(chari)」とは、チャリティ(charity)のchariでもあります。
「人々に夢や希望をともす」という意味がもともとあります。
つまり「カリスマ」とは、「周りに対して明るい光を投げかける人」のことなのです。
そういう人がそばにいてくれたら、とても嬉しい、温かい、ありがたい、ということで、人々はその人のそばに寄ってくることでしょう。
そういう状態を、最後の1%…徳と呼ぶのです。
これは努力をして得られるものではありません。
周りの人から与えてもらうもの、周りの人が評価してくれることです。
それが徳というものです。
『こころの宝島』弘園社
情勢判断学の大家、城野宏氏は、企業の戦略は二者択一である、と言った。
つまり、発展か衰退か、現状打破か現状維持かの二者択一、ということ。
これは、人の生き方でも同じことが言える。
現状打破の姿勢の人は、不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言わずに、どんな問題の中にもチャンスを見つけることができる人。
現状維持の姿勢の人は、現状に不平不満を言って、結局なにもしないで暮らすこと。
そして、どんな問題が起きても、そのうえ感謝までできる人は、多くの人から慕われ、人が集まってくる。
つまり、本当の意味でのカリスマとなる。
「徳とは、周りの人から与えてもらうもの、評価してくれること」
まわりから評価される、徳のある人を目指したい。 |
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