2014.4.26 |
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淡々と生きること |
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小林正観さんの心に響く言葉より…
新しい茶葉に六十度のお湯を注ぎ、一杯目のお茶を出します。
このお茶は甘い。
同じ茶葉で、甘いお茶が出たあとの二杯目を、十度高い七十度ぐらいのお湯を注ぐと、今度は渋みが出ます。
そしてさらに十度高い八十度ぐらいのお湯で三杯目を出すと、今度はお茶の苦い部分が出てくる。
さらに、九十度以上の熱いお湯で四杯目を出すと、もう甘味もなく、渋みもなく、苦みもない、色だけのお茶が出ます。
これが出がらしです。
千利休は、この四杯目以降のお茶、甘味もなく、渋みもなく、苦みもない、かすかに色が付いているだけの茶の味を、「淡味(たんみ)」と呼びました。
「淡々と」の「淡」です。
淡々とは、“水が静かに揺れ動く”という意味で、静かに安定している状態です。
この淡味は、ただのお湯、白湯(さゆ)に近い状態です。
利休は、「この淡味のよさがわからない限り、お茶は永久に理解ができない」と言っています。
利休は、出がらしのお茶のおいしさがわかるようになれと言った。
じつはこの出がらしのお茶のおいしさとは、「感謝」です。
茶道はお茶をいかにおいしく淹れるか、いかにおいしく味わうかの道ですが、それを甘い、渋いと言っている間は、まだ本質がわからない。
淡味のお茶をいかに味わえるか、それをどう喜びとすることができるか、つまり感謝することができるか。
そこで、本当のおもしろさがわかる。
お茶をたしなむ上で、器が良いとか、作法がどうとか、茶葉がどうとか、おいしいとかまずいなどと言っているうちは、まだまだなのだと利休は言いたかった。
これを人生に置きかえていえば、朝起きて、仕事をして、帰ってきて、夕食を食べて、テレビを見て、寝て、また翌朝が来て、また仕事をして、また夕食を食べて…とそういう日々が繰り返されるなかに、人生のおもしろさや、幸せや、贅沢感というのがある。
淡々と生きていくなかにこそある。
人生を、やれ楽しいの愉快のとはしゃいで、「どこそこに行ったからおもしろかった」「あそこに行ったからステキだった」などと言っている限り、本当の人生はわからない。
淡味がわからない限り、人生は永久にわからない、ということです。
「人生の本質は、淡味にあり」です。
「淡々と生きる」ことです。
『淡々と生きる』風雲舎
小林正観さんは、こんなことも言っている。
「夢や希望を持って、それを語りなさい。それに向かって行きなさい、という表現もあふれています。
夢や希望というのは耳にはいい響きですが、よく考えてみると、結局は『足りないこと』を言っているにすぎないのです。
『あれが足りない。これが足りない。あれを寄こせ。これを寄こせ』と言うことを夢や希望であると吹聴しています。
これは突きつめていくと、エゴなのです。
私たちは九千九百九十の喜びを宇宙からいただいているのに、足りない十個を挙げて、それを『寄こせ、寄こせ』と言っているのです。
『その十個を手に入れたら幸せだ。手に入らなかったら不幸だ』と」
我々は、今ある幸せに感謝しないで、「足りない、足りない」、「もっと欲しい」と言っている。
何か特別な面白いイベントがなければつまらない、不幸だ、と。
しかし、淡々と過ぎていく平和で単調な毎日こそ、幸せだということに気づかない。
世界のどこか、戦争や紛争が起こっている地域、飢餓にあえいでいる国々、独裁的で自由のない国家、に行ってみれば、それはすぐわかる。
「淡々と生きること」
この日本に生まれた幸せ、そして、今生きている幸せに感謝したい。 |
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