2014.4.12 |
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タモリ学 |
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戸部田誠氏の心に響く言葉より…
披露宴などの“セレモニー”嫌いを普段から公言しているタモリだが、新郎新婦両者(『いいとも』金曜日ディレクター出口敬生と、フジテレビアナウンサー梅津弥英子)ともに仕事で関係が深いこともあって出席していた。
結婚披露宴というのは「偽善」の塊である。
しかも、タモリが大嫌いな「予定調和」がはびこっている。
さらに「内輪受け」が安易に許されてしまう空間だ。
タモリは居心地の悪さを感じていた。
式は進行し、新郎側の友人代表の祝辞。
アメフト部だという彼に向って、タモリは突如タックルを仕掛けていった。
驚いた周囲はもちろん制止にかかる。
会場は思わぬハプニングに爆笑、そして喝采。
しかしそれでもなお襲いかかろうとするタモリは、最終的に羽交い締めにされ席に戻された。
タモリは振り返って言った。
「新郎の友人の挨拶が非常に長い。それで『ツカミはOK』とか、(観客の心を)掴んでないのに言う」
そんなスピーチが、タモリには我慢ならなかった。
また、タモリは「人間とは精神である。精神とは自由である。自由とは不安である」というキルケゴールの言葉を引用し、それを解説していく。
「自分で何かを規定し、決定し、意義付け、存在していかなければならないのが人間」であり、それが「自由」であるとすれば、そこには「不安」が伴うと。
この不安をなくすためには「自由」を誰かに預けたほうがいい、と人間は考える。
タモリは言う。
「人間は、私に言わせれば『不自由になりたがっている』んですね」
だから人は、「家族を大切にする父親」であったり「どこどこの総務課長」であったりといった「役割」を与えられると、安心するのだ。
その「役割」の糸こそが、シガラミである。
そして大人になれば、そのシガラミを無視することは現実的に不可能だ。
「若者よ、シガラミを排除し、実存のゼロ地点に立て!」と。
それを経験しているのとしていないのとでは、大人になった後、腹のくくり方や覚悟の仕方が違ってくる。
ゆえにそんなシガラミを象徴するような各種行事を排除していかなければならないと、タモリは結論付けるのだ。
結婚披露宴、クラス会、そしてクリスマス会にバレンタインデー…それらの各種行事は「不自由になりたがっている」人間が不安から逃れるための幻想、錯覚、自己喪失の場であり、排除すべきものだ、と。
その考えは今でも一貫しており、それをこう語っている。
「俺はすべての記念日(のパーティは)やんない。自分の誕生日もやんないもん。(プレゼントも)受け付けない。(他人にも)ほとんどあげない。もらわない、あげない。年賀状出さない」
しかし一方でタモリは「最近、『人間関係をうまくやるには、偽善以外にはないんじゃないか』って思ってる」とも語っている。
ネクタイを締める、制服を着る、食事のマナー、そういった「様式」をタモリは「偽善」だという。
そしてタモリは「マナーと美意識も偽善」であるといい、さらに「偽善は善意」「偽善を楽しめばいい」とも述べている。
「偽善って、徹底的にやると、これまた、別のたのしみがあるんです」
『タモリ学』イースト・プレス
若い頃、シガラミや押しつけを無視して、バカをやった人は、大人になってからも何かしらの魅力を持っている。
規則や決まり事にとらわれない、暴発するようなある種の危うさや狂気を持っているからだ。
狂気はシガラミや偽善を嫌う。
自らを狂愚と名乗った幕末の熱血の志士、吉田松陰は、弟子たちに「諸君、狂いたまえ」と言った。
常に創造的であろうとすれば、そこにはある種の狂気がなければならない。
それは、人と違うことを恐れないこと。
日々、波風を立てずに生きることはとても大事なことだ。
しかし、一旦事あるときには、それらを打ちこわし、腹をくくって狂うことも必要だ。
いくつになっても、創造的な大人でありたい。 |
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