2014.4.2 |
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テキトーな感じ |
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高田純次氏の心に響く言葉より…
八名信夫さんなんかがやっている悪役商会(1983年に八名氏など悪役俳優12人で結成され、現在70名ほどが所属。ボランティア活動などを行っている)。
悪役俳優だけあって恐い顔をした人たちがそろっているわけだけど、あの人たちは悪人じゃないから悪役ができるというところがある。
根っからの悪人がそのまま悪役をやったら、ただのワルになってしまうわけで、悪人じゃない人が悪役をやるのが芝居なんだと、僕は思う。
八名さんもそうだし、テレビで見るたびに越後屋とつるんでる悪代官だった人って、もちろんそんな人じゃなくて、無類のお人好しだったりする。
つまり、善人が悪役の芝居をやるから、そのギャップが見る側にも魅力を感じさせると思うわけよ。
以前、僕がやっていたテレビ番組に、演歌歌手の石川さゆりさんがゲストできたとき、みんなが「へぇ!!」となった。
それは、彼女の趣味がスキューバダイビングだったり、とにかくアクティブなアウトドア人間だってわかったからなんだ。
冷静に考えれば、石川さゆりさんがそういう人でもちっとも不思議ではないんだけど、演歌歌手のイメージっていうのがあるんだな。
たとえば、朝から着物を着てるとか、場末の酒場で涙ぐみながら飲んでるとか、そういうやつ。
本当に僕が適当な奴で、適当男だったら、そのまんまで逆に面白くないと思う。
僕の場合は25歳まで、真面目なサラリーマンだったわけだから。
無責任男で売った植木等さんだってお寺の子で、まったくの真面目人間だったっていうくらいだから。
僕の場合、この世界に飛び込んでから今に至るまで、自分の芸風はこうであると意識したことがない。
こういう感じのことをやったらウケた、ということはあっても、このネタをやったらウケるという絶対的なものをもっていなかったから、いつもけっこう厳しいところを歩いてきたような気がする。
60の声聞いてからはじめて「適当男」みたいなことになったわけだけど、これだって、芸でも何でもないから、つらいものがある。
それに、イメージをもらったらもらったで、そのイメージを裏切らないっていうのはけっこうむずかしいことだと思う。
「高田さんのテキトーな感じがいい」と第三者に言われて、「そうか!」とその気になった僕が、「適当」を大いに意識してそれを演じてみせるとか、芸にしちゃうおうとかなったときに、それはもう「適当」じゃなくやっちゃうってことだ。
もし僕がもっている適当な感じ、いい加減な空気感みたいなものが支持をされているとしても、それはそんなことを意識しないところからでているもので、「テキトー、かますぞ!」とばかりに過剰に意識してやっているような部分はほとんどないんだから。
真面目に考えてしまっても、その瞬間に適当じゃなくなるってこと。
『人生の言い訳』廣済堂文庫
いじめられて、泣き虫で、病気がちで、貧乏で、というような人が、人気の俳優になったり、大成功者になったりするから、それが波乱万丈のドラマにもなる。
山あり谷あり、ジェットコースターのような人生であればあるほど、ウケるドラマとなるし、辛かった時の経験を後になって、面白おかしく話ができるなら、明るいドラマとして終わることができる。
スケジュールで一杯の手帳を見せ、いつも「忙しい!、忙しい!」と自慢げに言っている人より、どんなに忙しくても、「ゼンゼン、ラクショー!」などとテキトーなことを言っている人の方が、余裕があって、ダンゼン魅力的だ。
真面目なのは素晴らしい徳目だが、それが行き過ぎてしまうと、正論を主張しぎて人を許せなかったり、融通がきかなかったり、力の抜き方がわからなかったりしてしまう。
つまり、車のハンドルにあるような遊びや、ユーモアのセンスがない、ということだ。
人生には時に、テキトーな感じも必要だ。 |
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