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2014.2.20

スピーチと演説

精神科医、斎藤茂太氏の心に響く言葉より…

「スピーチ」という英語を日本語にするとどうなるか、ご存じだろうか。

「演説」である。

ところで「スピーチ」に演説という訳語を当てたのは、福沢諭吉なのだそうだ。

しかしこれは、どこか不釣合いな気がしないでもないのだが。

「演説」では、ちょっと重々しくなり過ぎはしないか。

ちょっと権高(けんだか)な、ちょっと偉そうな感じになり過ぎる。

なぜ福沢諭吉が「スピーチ」に「演説」などという不釣合いな訳語を当ててしまったのか。

当時の日本人にとって「人前に出て話をする」ということはきっと、並々ならぬことだったのだ。

冗談でもいって、みんなを笑わせて、4,5分で「おあとがよろしいようで」などと簡単にすますことなど許されない。

そんな「いいかげんなこと」は許されないこと。

いやしくも人様の前に出て話をするからには立派なことをいい、聞いている人を「ごもっとも」と納得させることをいい、「さすが、いいことをいう」と感心させるような話をしなければならない。

こういう生まじめさというか、悪くいえば体裁に重きを置くというか、こういう日本人ならではの意識が福沢諭吉にもあって、「スピーチ」に「演説」という大上段に構えたような訳語を当ててしまったのではないか。

面白い逸話がある。

イギリスの経済学者のケインズが記者会見をしたときの話である。

記者のひとりが、「イギリス経済は長期的に見ると、どうなるのでしょうか」と質問した。

それに答えてケインズは、「そうですな、長期的に見れば、我々はすべてこの世にはいないでしょうな。みんな死んでしまっているということです」。

これはジョークだ。

「そう先々のことを心配しなさんな。なるようにしかならないのだから」といったような意味が裏に隠れている。

それをはっきりいってしまえば経済学者としてのメンツが立たないし、質問した記者にも申し訳がないから、こういうジョークでかわしたのである。

会場に居合わせた記者たちは思わずどっと笑い出したが、ひとり笑わない人がいた。

それどころか「記者会見なのだから、もっとまじめに答えてほしい」と怒り出した。

その人はドイツからきた特派員だった…。

どうもドイツの人にも、日本人と似通った意識構造がありそうだ。

お互いに生まじめで、気むずかしくて、体裁に重きを置く。

とくに人前では、そうなってしまう。

もう少し肩から力を抜いてもいい。

人からよく見られなくてもいいのである。

よく思われなくてもいいのだ。

ある意味、もっといいかげんであってもいいのである。

それが心の健康、ひいては人生をもっと幸せな気持ちで生きていくことにつながるのだから。

がんばり過ぎてダウンしてしまったら元も子もないのではないか。

「のんびりやっていきたいのだが、のんびりしていると、人から怠けているように思われはしないかしら」と心配になってくる。

人から怠けている、さぼっていると見られていのではないかという不安と心配に、人はなかなか打ち勝つことができない。

「人の目」が気になるから、「怠ける自分」に良心の呵責(かしゃく)のようなものを感じてしまうのだ。

「人の目」で自分を見るのではなく、自分の目で自分自身を見つめてみること。

それができれば、「がんばり過ぎている自分」も見えてくるのではないのか。

諸君、もっと肩の力を抜いて、いいかげんに生きていこう!

『人生に大切な「たったこれだけの習慣」私の方法』新講社


人から何かを言われてしまう、というのはそれが目立つからだ。

誰もあまり知らないことだったら、ひとことも言われることはない。

人から知られていない自分だけの世界を持っている人は、心に余裕がある。

そこに行けば、ほっと安らぎ、のんびりでき、心の充電ができる場所だ。

趣味の世界だったり、ほめてくれる仲間や家族がいる場だったり、という自分の心がときめく場だ。

たとえ、スピーチで受けなくて、恥ずかしい思いをしても、それでがっくりすることはない。

そこへ行けば癒(いや)されるからだ。

人の目を気にせずに生きていくためにも、自分の独自の世界を持っていたい。



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