2014.1.17 |
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天界と魔界
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美輪明宏氏の心に響く言葉より…
まず、最初に、
「この世の中に、天国を求めてはいけない」
ということです。
天国だと思って、いろんな事柄を善意に解釈しすぎるから、周りに対してもいろいろ期待しすぎることになるのです。
天界と魔界のちょうど中間、短所も長所も両方もっているのが、この地球の宿命なんです。
この世は、天界人は半分、魔界人が半分いて、闘争し、戦い合う戦場なのです。
だから、「ここは天国だ」と思い込み、すべてが天界人だというつもりで魔界人に接すると、えらい目に遭うのです。
魔界人は、すきあらば人に害を与えようとしています。
魔界人の武器は快楽です。
その武器で天界を滅ぼそうと狙っています。
だからこそ、「生きている限り、魔界人たちとは出会うことになるのだから、戦うなり、柳に風と受け流すなりして、渡り合っていかなくては」と覚悟を決めておくことが大切です。
覚悟ができていないから、いざ魔界人に出会ったときに「ああ、なんてひどい人だろう」とビックリして、オロオロして、さらに魔界人につけこまれてしまうのです。
覚悟が決まっていれば、早い段階で「あ、この人は魔界人だ。つけこまれないよう距離をおいておこう。つけこまれそうになっても堂々と渡り合おう」と思うことができます。
精神的な準備ができている、ということです。
ひとりの人間の中にも、天界人の部分と魔界人の部分があります。
「悪100%、骨の髄まで魔界人」という輩もいるけれど、大多数の人は、ちょっとしたきっかけで人と自分を比べてひがんでしまうのだし、憎んでしまうものだし、「自分さえよければ、他人に迷惑がかかっても仕方がない」と思ってしまうもの。
それが当たり前なんですよ。
性悪な部分もあるのが、この世に生きている人間なのです。
100%清らかな存在だったら、この世には生きていません。
だから、「魔界人の部分が自分の中にあるのも、当たり前」と、まず発想を変えてみればいいのです。
自分もそうなら、ましてや他人をや、ということです。
出会った人の中に魔界人の部分を見つけたからといって、驚くにはあたらないわけです。
「ああ、私もあなたも普通の人間」と、落ち着いた気持ちでいられます。
他人に過剰に期待をかけることもなくなるから、裏切られることもなくなる。
「やはり頼れるのは自分自身なんだ」という気慨も生まれることでしょう。
ただ、この世に生まれてきた以上、人は修行をしています。
少しでも全人格的な存在に近づけるよう、魂のランクを上げていくことが修行です。
みんな、つらい修行に耐えています。
努力したつもりでも、あっという間に魔界人の部分が頭をもたげてくるのが当たり前。
それを「これではいけない」と思い、その都度、軌道修正していく。
その繰り返しなんですよ。
2日や3日、1か月や2か月、3年や5年でめざましい結果が出てくるものではないのです。
「半々だった天界人と魔界人の部分が、死ぬときに6対4くらいになっていれば上々」と思っているくらいのほうが、精神衛生上、よろしいと思います。
『地獄を極楽にする方法』主婦と生活社
「水清ければ魚棲(うおす)まず」という言葉がある。
あまりに水がきれいなところは、プランクトンも繁殖せず、したがって魚も住むことができない、ということ。
転じて、あまりに清廉潔白な人には、人は寄り付かないということでもある。
「清濁併(せいだくあわ)せ呑(の)む」とは、善も悪もへだてなく、あわせて飲み込む度量の広さを言うが、まさに人の生き方も、あまりに清廉潔白すぎると窮屈になる。
この世は、善もあれば悪もある。
悪あることを知ってなお、善であり続けようとするのがこの世の修行。
どんなときも、自らの魂を磨き続ける人でありたい。 |
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