2013.9.16 |
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身を修める
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藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
経世の書『呂氏(ろし)春秋』にこういう話がある。
殷(いん)の国を開いた湯(とう)王という王がいた。
湯王は名宰相の伊尹(いいん)に、天下を取ろうと思うがどうすればよいか、と問う。
伊尹が答えて言う。
天下を取ろうなどという欲望に走ったら、決して天下は取れない。
それどころか自分の身が先に取られてしまう。
昔から聖王といわれるような人は、まず自分の身を創り上げてから天下を得た。
天下を治めようとする者は、天下を取ろうなどという考えはさて措(お)いて、まず自分を修めなければならない。
上に立つ者の必読書とされる『大学』が最も重んじるのも「修身」である。
身を修めていない小人が上に立つと災害が並び至る、とも指摘している。
「修身」の度合いを心理学的に考察した人に薄衣佐吉(うすぎさきち)氏がいる。
氏は心は発達するものであり、7つの段階があるという。
第一は自己中心の心。赤ちゃんがそれである。自分の欲求だけに生きている。
第二は自立準備性の心。幼稚園児の頃である。用事を手伝ったりする。
第三は自立力の段階。成人を迎え自立する。
第四は開発力の時代。困難に立ち向かい、開発改善していく力を持つ。年齢的には30〜40代か。
第五は指導力。40〜50代になり部下を指導していく。
第六は包容力。好き嫌いを超えて人を包容していく。
そして第七は感化力。その人がいることで自ずと感化を与える。最高の状態と言えよう。人間、晩年にはかくありたいものだ。
ここで留意したいのは、人は歳月とともに身体的年齢は増えるが、心の発達は必ずしも歳月に比例しないということである。
薄衣氏によれば、年は取っても75パーセントの人が二段階の状態で終わり、三段階までいくのは15パーセント、四段階以上に至るのは10パーセントという。
修身の厳しさを思わずにはいられない。
『小さな修養論』致知出版社
「修身斉家治国平天下 (シュウシンセイカチコクヘイテンカ)」という言葉が「大学」にある。
天下をおさめるには、まず自分の身を修め、次に家庭をととのえ、そして天下を平らかにする、ということ。
自分の身を修めるということは、子供から大人になる修養をするということ。
すなわち、「自立」。
自立している人の特徴は、「人のせいにしない」、「与えられた環境に文句を言わずそこで最善を尽くす」、「自分を律することができる」、「人に与えることができる」等々。
身を修めた人は、現在どのような役職、ポジションにいようが、自分のいる場を高めることができる。
身を修めていない小人は、場を貶(おとし)め、価値を低くする。
願わくば、多くの人に感化を与えることができる晩年でありたい。 |
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