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2013.9.10

言祝(ことほ)ぐ

玄侑 宗久氏の心に響く言葉より…

気仙沼のお寺の和尚が住職になる儀式(晋山式)だったが、修行時代の師匠である老師が本山から招かれ、「祝辞」という段になった。

その際、老師はしばし沈黙し、ぴったりと口を閉じて虚空をにらみ、それから大声で「バンザーイ」と大声をあげた。

それだけである。

長々とした祝辞が多いなかで、それは鮮やかな場面として今も脳裏に甦る。

伝わるものは言葉にしなくても伝わる。

何人かの涙ぐむ人々を見ながら、私はそう思ったものだった。

しかし、これは極めて稀な例である。

通常は、祝う心を丁寧に表現しないとそれは伝わらないし、それどころか、表現することで無意識だった気持ちまで引き出されたりする。

「めでたい」という言葉は、本来「愛でる」という動詞に「願望」の助動詞「たい」がくっついたものだという説もある。

だから本人が「愛でる」という行為をしたいと思えばめでたくなるし、したくなければどんな事態もめでたくはないのである。

その「愛でたい」という気持ちを、わざわざ言葉に出して表現することを、日本では古来「ことほぐ(言祝ぐ)」と云う。

寿は、その連体形である「ことほぎ」が更に訛ったものだ。

今の自分の生活、あるいは自分のこれまでの来歴を、そのまま肯定的な言葉で表現する「言祝ぎ」が、「いのちながし」とも読む「寿」で代用されている。

ということは、そうすることが長寿にも繋がると考えられた証拠だろう。

禅ではこの「言祝ぎ」が重視される。

なによりもまず自分の生まれた場所や親は選べなかったわけだから、そこから言祝いでしまうのである。

この町に生まれて佳かった、この両親のもとに生まれて佳かった、そこから始まって「今日は佳い台風だ」「今の私は素敵な年齢だ」「歯が痛いのもしみじみして味わい深い」などと、自分の立っている足元の状況を全て肯定していくのである。

むろん文句をいえば状況が変わるというなら、言ったらいい。

しかし大抵の状況は、文句を言うと更にその不満が強く意識されるだけで、あまり意味がない。

だから言っても仕方がない文句は言わず、言祝ぐことで「今」を安定させる。

それが禅的な意味での「足るを知る」ということだ。

自分がどこで何をして暮らしていくのか、そのことに揺らぎのない確信がもてれば、たいがいのことは愛でることができると禅は考える。

この人と、ここで生きていく。

その気持ちが揺らぎさえしなければ、ケンカすることも病気になることも、あるいは不景気に苦しむことさえ「風流」だというのである。

バンザイと叫んだところで、その事態が「万歳」続くとは誰も思っちゃいない。

しかし志さえ揺らがなければ、人生はさまざまな「ゆらぎ」さえ風流と味わえる。

その人間の知恵に、私はバンザイを言いたいのである。

『釈迦に説法』新潮社


文句や愚痴を言おうが、嘆(なげ)こうが叫ぼうが、事態は少しもよくはならない。

言えばいうほど、気持ちが滅入り、気分が悪くなるだけだ。

文句を言う人の心には、常に比較感がある。

まわりの誰かと比べてばかりいれば、どんなに幸せな人でも、不幸になる。

文句の反対が、言祝(ことほ)ぐこと。

どんな事態におちいっても、言祝ぐことができれば、そこから上昇することはあっても、落ちることはない。

「今ここ」を生きる人は、未来を憂えず、過去を悔(く)やまない。

文句という否定から入る人は、一瞬一瞬という今を生きていない。

言祝ぐということは、肯定すること。

「愛(め)でたい」は、「言祝ぎ」。

どんなときも、言祝ぐことができる人でありたい。



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