2013.8.31 |
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私憤と公憤
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松下幸之助氏の心に響く言葉より…
西ドイツの首相であったアデナウアーが、アメリカのアイゼンハウアー大統領に会った時、こんなことを言ったという。
第一は、「人生というものは70歳にしてはじめてわかるものである。だから70歳にならないうちは、ほんとうは人生について語る資格がない」ということ、
第二には、「いくら年をとって老人になっても、死ぬまで何か仕事を持つことが大事だ」ということである。
この二つはよくいわれることでもあり、またわかりやすい。
けれども三番目にいったことはちょっとちがう。
「怒りを持たなくてはいけない」というのである。
これはいささか奇異な感じがする。
怒りを持つ、腹をたてるということは、ふつうはむしろ好ましくないとされている。
できるだけ腹をたてずに、円満に人と接し、いわば談笑のうちに事を運ぶ、それがいちばん望ましいとだれもが考えるだろう。
ところが、アデナウアーは“怒りを持て”という。
いったいどういうことだろうか。
これは、単なる個人的な感情、いわるゆる私憤ではないと思う。
そうでなく、もっと高い立場に立った怒り、つまり公憤をいっているのであろう。
指導者たるもの、いたずらに私の感情で腹をたてるということは、もちろん好ましくない。
しかし指導者としての公の立場において、何が正しいかを考えた上で、これは許せないということに対しては大いなる怒りを持たなくてはいけないといっているのであろう。
一国の首相は首相としての怒りを持たなくてはならないし、会社の社長は社長としての怒りを持たなくては、ほんとうに力強い経営はできないといってもいい。
まして昨今のように、日本といわず世界といわず、難局に直面し、むずかしい問題が山積している折には、指導者はすべからく私情にかられず、公のための怒りを持って事にあたることが肝要であろう。
『指導者の条件』PHP研究所
佐藤一斎『言志四録』に、「憤の一字は、これ進学の機関なり」という言葉がある。
発憤することが、学業を牽引する機関車となる、ということ。
憤とは、「なにくそ、負けてたまるか」と奮い立つことであり、私(わたくし)の怒り、つまり私憤(しふん)を持つことではない。
相手を痛めつけようとか、競争して勝とうと言うのではなく、自分のふがいなさを叱咤激励し、己をもう一段高いところに引き上げるための、公(おおやけ)の怒り、つまり公憤(こうふん)を言う。
私憤は外に向うが、公憤は自分の内に向かう。
世のため人のためを思いそれを憂えるなら、自らが内省し、自分が動くしかないからだ。
私憤ではなく、公憤を持つ人でありたい。 |
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