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2013.7.14

文章は料理のようなもの

外山滋比古氏の心に響く言葉より…

とにかく、他人に読んでもらうのが文章である。

すべてそれを前提にして考えて行きたい。

相手あっての文章という考えに立つと、文章は料理のようなものだということがわかってくる。

料理は作った人も食べる。

味見や毒見もする。

しかし、料理は食べてくれる人がなくては張り合いがない。

料理の先生が、独り暮らしの自分のマンションではインスタント・ラーメンを食べているという話がある。

教わりたい人がいるから、先生にもなる。

うまいと感心してくれる人がいるからこそ、腕を振るってめんどうな料理もこしらえる。

自分ひとりだけ食べるのでは、とてもそんな手間ひまをかける気がしないというのであろう。

文章は料理、とすると、まず、食べられなくてはいけない。

何を言っているのか、わからない。

これでは料理ではない。

スープなのか、みそ汁なのかわかないのでは食べる方は迷惑である。

若い人の書く文章に、誤字、脱字、当て字が多いと言われる。

ご飯の中に石が入っているようなもので、石が歯にカチッと当たるのはたいへん気になる。

そういう混ざりものをなくさないと、せっかくの料理も台なしになってしまう。

文章が料理だとすると、ある程度、栄養があり、ハラもふくれないといけない。

見てくれだけの料理というのもあるが、本当に相手のことを考えていない。

文章で言うと、しっかりした内容があることであろう。

いくら表現にこってみても、中身がなくては困る。

何を言っているのかが、読む側にはっきり伝わり、なるほどと納得するのがいい文章となる。

料理で、いちばん大切なのは、おいしい、ということである。

いくら栄養があっても、うまくなくては落第。

つい食べ過ぎてしまうようなものが、上手な料理というものである。

もうやめておきたいと思いながら、つい、もうすこし、もうすこし、と後を引くようなご馳走を作るのが本当の名コックだ。

文章もその通り。

いくら、りっぱなことが書いてあっても、三行読んだら、あとはごめん、と読者が思うようなのではしかたがない。

先、先が読みたくなって、気がついてみたらもう終わっていた。

ああ、おもしろかった。

こういう文章ならいくら読んでもいい。

そういう気持ちを与えたら名文と言ってよい。

いまの文章は、多く、読者に対するそういうサービスの精神に欠けているように思われる。

自分の書きたいことを一方的にのべる。

身勝手なのである。

同じことなら、おもしろく読んでもらおうという親切心が足りない。

おもしろいというと、すぐ、おもしろおかしく、吹き出したり、ころげ回って笑ったりすることを連想しがちである。

そういうおもしろさもないわけではないが、ここで言っているおもしろさは、相手の関心をひくもの、といったほどの意味。

読まずにはいられない、放ってはおかれないという気持ちを読む人に与えるもの…それがおもしろさである。

興味深いもの、知的な快い刺激を感じさせるものは、すべて、おもしろいものになる。

文章は料理のように、おいしく、つまり、おもしろくなくては話にならない。

『文章を書くこころ』PHP文庫


劇作家の井上ひさしは、揮毫(きごう)を頼まれると、次の言葉を色紙に書いたという。

「むずかしいことをやさしく

やさしいことふかく

ふかいことをゆかいに

ゆかいなことをまじめに書くこと」

文章も、スピーチも同じだが、やたら専門用語や横文字が出てくると、それだけで読む気も、聞く気も失せてしまう。

難しいことを小学生にも分かるように、深く、やさしく、おもしろく書くには、自らがそれを深く理解し、自分のものになっていなければならない。

そして同時に、「たとえ話」が上手である必要がある。

全部読んでしまうのが惜しい、さらにもう一度読み返したくなる、という珠玉の名文には、後を引く余韻がある。

「文章は料理のようなもの」

おいしくて、おもしろい文章が書けたら最高だ。



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