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2013.7.7

足るを知る

占部賢志氏の心に響く言葉より…

そもそも尖閣諸島経営の先駆者とは誰だったのか。

実は尖閣諸島にはれっきとした日本人の開拓者、所有者がいました。

明治以来、長い間におよんで古賀辰四郎及び子息の善次、その後は善次の妻がこの島を守ってきたのです。

古賀は、安政3年に福岡県上妻群山内村(現在の福岡県八女市山内)に誕生しました。

古賀が尖閣諸島の調査に本格的に手を染めたのは明治17年のことです。

まず汽船をチャーターして尖閣諸島の1つ魚釣島に探検隊を派遣、翌年にはみずからも乗船して調査に赴いています。

長男の善次が語った証言(『現代』昭和47年6月号所収「尖閣列島は私の所有地です」)に明らかです。

「当時八重山の漁民の間で、ユクンクバト島(尖閣諸島の久場島)は鳥の多い面白い島だという話が伝わっておりまして、…おやじもそんな話を聞いていたんですね。

そこで、生来冒険心が強い人間なものだから、ひとつ探検に行こうということになったんです。

明治17年のことですがね。

…明治政府が尖閣列島を日本領と宣言したのは、父の探検から11年後の明治28年です」

そこで古賀は、再び「官有地拝借御願」を内務大臣に提出するのです。

時の野村大臣は30年の期間を設けて尖閣諸島のうち魚釣島と久場島の貸与を許可します。

許可が下りるや、開発は飛躍的に進みました。

家屋の建築や井戸の掘削、開墾によって生活の基盤を築いて人を移住させ、魚介類の加工工場や羽毛製造所その他多岐にわたる施設を設けて発展するのです。

明治33年に開かれたパリ万国博覧会では、尖閣諸島などで製造した真珠や貝殻類を出品し、見事銅賞を受賞。

明治42年、古賀の尖閣諸島をはじめとする目覚しい開拓事業に対して藍綬褒章が下賜されました。

また、善次は次のように述べています。

「大正8年、中国福建省の漁船が、尖閣列島沖合いで難破しました。

そのとき、たまたま私の船がそれを発見し、難破船と31人の乗組員を助けて石垣島へつれてきて、手厚い保護をしました。

私だけでなく、石垣の人たちも彼等を親切にもてなし、修理をおえた船とともに中国へ帰してやったのです。

翌年ですよ、中国政府から私をはじめ石垣の関係者に感謝状が送られてきましてね。

その宛名は、日本帝国沖縄県八重山群島尖閣列島でしたよ。

いま中国がいっている魚釣台ではなく、ちゃんと尖閣列島になっています。

個人からの手紙ではありません、政府としての感謝状なんです」

ここに紹介された中国政府から贈られた「感謝状」は現在も保管されています。

今を遡(さかのぼ)ること90年以上も前から、中国は尖閣諸島は日本の領土であると認識していた決定的な証拠にほかなりません。

こうした事実にもかかわらず、中国や台湾の一部勢力が何故領有権の主張を始めたのか。

それは、昭和40年代後半の国際連合機関による海底調査で、この一帯に豊富な海底油田の可能性が取り沙汰(ざた)されるようになったからです。

『日本人の物語』致知出版社


「足知(ちそく)」“足るを知る”という老子の言葉がある。

何かを手に入れても、それで満足せず、「もっと、もっと」と際限なく欲しがる人を戒める言葉だ。

金や物、名誉や肩書き、地位など、次々に…

人は、今与えられている当たり前のことに感謝がなくなったとき、不平や不満、批判、非難、そして驕(おご)りが出てくる。

尖閣問題というと生臭い外交の問題になってしまうが、我々の生き方として、このことをもって他山の石としたい。

日々、足知の気持ちを忘れずに生きていきたい。



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