2013.5.10 |
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山高きが故に貴からず
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斎藤孝氏の心に響く言葉より…
『山高(やまたか)きが故(ゆえ)に貴(たっと)からず。
樹有(きあ)あるを以(も)って貴しとす』
実語教(じつごきょう)のこの言葉は、「山が高いから貴いのではなくて、そこに樹があるから貴いのだ」といっています。
なぜ樹があると貴いのでしょう?
樹を切って材木にして、家を建てたり、箸(はし)を作ったり、社会のために役立てることができるからです。
「何かの役に立つ」ということがとても重要です。
そのときに初めて価値が生まれるのです。
これは別のいい方もできます。
たとえば、勉強ができる人はそれだけで立派なのでしょうか?
もしもその頭を悪事のために使うとすれば、とても立派とはいえません。
やはり、頭がいいから貴いわけではなくて、それを世の中のために役立つように使うところに、初めて価値が生まれるのです。
それに不思議なのですが、自分の得になることだけを考えて勉強しても、あまりやる気は湧(わ)いてきません。
ところが、世の中の役に立つ仕事をしたいという目標を立てると、勉強する意欲が急に湧いてくるのです。
人間は誰でも、「世の中の役に立ちたい」という気持ちを心のどこかに秘めているのですね。
頭のいい人を見たり、運動神経がすごくいい人を見たら、「あの人はすごいなぁ」と、うらやましく思うかもしれません。
でも、一番大事なのは、自分の一生のうちで、社会のためにどれだけ役立てるか、どれだけ人が喜んでくれたか、なのです。
宮沢賢治の書いた『虔十(けんじゅう)公園林(こうえんりん)』という童話があります。
主人公の虔十は、ちょっと頭が鈍(にぶ)くて、まわりの人から馬鹿にされていました。
その虔十が家の裏の野原に杉の木を植えたいといいだしたのです。
お父さんは「虔十がそんな頼みごとをするのは珍しい」といって、杉苗(すぎなえ)を買って植えさせてやりました。
ところが、土が悪くて杉はなかなか育ちません。
それでも、虔十は下枝をきれいに伐採(ばっさい)しました。
すると、子どもたちがその木の間を行進して、楽しそうに遊び出しました。
虔十はそれを見て大喜びしました。
やがて、その林で遊んでいた子どもの一人が偉い大人になって故郷に帰ってきました。
あたりの風景は昔とすっかり変わっていましたが、ただ一つ、虔十の杉林だけは昔のままでした。
虔十はすでに病気で死んでいましたが、家の人が「虔十のただ一つのかたみだから」といって、その土地を手放さなかったのです。
偉くなった人は話を聞いて感激して、「ここを虔十公園林と名づけて保存してはどうでしょうか」と提案しました。
すると、昔そこで遊んだ、今は立派な仕事についている人たちから、たくさんのお金が集まりました。
そして、虔十の杉林は、虔十公園林という公園になって、みんなの憩(いこ)いの場として残ることになりました。
頭の善し悪しでいえば、虔十は決して頭がいいわけではありません。
でも、目標を立てて、一所懸命に木の世話をしたから、大きな仕事をなしとげることができたのです。
『子どもと声に出して読みたい 実語教』致知出版
寺子屋教育の原点は、平安時代にできた「実語教」にある、といわれる。
1000年近くの間、日本の子どもたちの教科書として使われてきた。
どんなに頭がよかろうが、スポーツが上手だろうが、お金持ちだろうが、人の役に立たなければ貴いとはいえない。
人の生き方として大事なことは、どれだけ世の中の役にたったか、人が喜んでくれたか。
どんな些細(ささい)なことでもいい、世のため人のためになることをして生きていきたい。 |
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