2013.3.31 |
|
大きい人間とは
|
|
櫻木健古氏の心に響く言葉より…
俳聖、松尾芭蕉の、「無能、無才にしてこの一筋につながる」は有名な言葉であるが、この“無能、無才”は自嘲であろうか?
とんでもない。
むしろ、俳諧という“一筋”には「ひそかな自信」があるのであり、これと比べたら他の分野には…という、謙遜の辞にすぎまい。
俳句ほど打ち込んでいないから、俳句ほどの自信はない、という意味のものかと思われる。
「アレができる、コレもできる」と得手(えて)を数多く並べ立てる人よりは、むしろ、より「できる」のかもしれないのである。
西郷隆盛はまだ10代のときに、「自分はいかなる才能もない」と自覚したそうだ。
といって、「おれは何をやってもダメだ」と、絶望したのではないようである。
劣等感にとりつかれたわけではないのだ。
劣等感の本質は、自分が劣っていることに反発し、これを承知できない、と力むところにあるが、西郷のばあいは、客観的精神でもってこれを認め、肯定しているのである。
「それでよし」としているのだ。
また、かれのいった才能とは、技術的な分野の才能という意味のようである。
「だから」と、かれの自覚はつづく、
「こういう自分のなすべき仕事とは、才能をもった人たちの才が活きるように、かれらに仕え、また、かれらを動かすことのほかにない」と。
ひろい意味での“政治”が自分の任であると、自覚したわけであろう。
かれにおいて、“無才”を自覚した謙虚と、政治という“一筋”にかけた「ひそかな自信」とは、一体のものであったはずである。
「私(わたくし)がない」という共通項で、この両者は合致しているのである。
かれが政治にかけた使命感は、おそらくはかれ自身の予期よりも、はるかに大きく花咲いた。
幕末維新の大変革期の中心人物の一人となって、天下国家を根底から動かしたからである。
これだけの大仕事をしておきながら、しかもかれは、
「人間一人が一生にやれることなど、タカが知れている」
と、いつも口にしていたそうだ。
自分がなした業績など、歯牙にもかけていないというふうであった。
「大きい人間とは、これだ!」
と勝海舟が、この言をとらえて激賞している。
「功名をなそうという者には、功名はけっしてできないものだ」と注を加えて…。
『人間における自信の探求』ぱるす出版
自分のことを才能がないと心の底から言い切ることの出来る人は、大物だ。
それは、密かな自信があるから言えること。
だが、小物は大きなことを言ったり、自慢したりして、自分を少しでも大きくみせようとする。
自信がないからだ。
その西郷が、江戸無血開城の立役者、幕臣、山岡鉄舟をさしてこう言った。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。
この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり」
私利私欲なく、公に殉ずる覚悟のできている人は始末に困る。
ありのままの自分をさらけ出してもなお、魅力ある人でありたい。 |
|
|