2013.3.19 |
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珠玉のような贈り物
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小林正観さんの心に響く言葉より…
お釈迦さまがまわりの弟子たちに、こんなふうに問いかけたことがあります。
「人間の一生の長さは、どのくらいだと思うか」
問われた弟子たちは口々に、30年とか、50年、70年、120年と答えましたが、お釈迦さまの答えは、次のようなものでした。
「いや、どれも違う。
人間の一生というのは、刹那(せつな)、刹那、この一刹那の長さだけだ」と。
一刹那とは、拍手を一回した中に65刹那入っている、それぐらいの長さだそうです。
その一刹那というのは、つまり一瞬ということですが、この一瞬、一瞬が人生の長さなのだそうです。
私たちは今という時間を、未来をこうすればよいと思いながら生きていることがあります。
でも実は、人を大事にするとか、物を大事にするとか、現象を大事にするというのは、今、目の前にあることを大事にすることにほかなりません。
三日後に来る人を大事にしてあげようと思う人は、その人が目の前に来た時には、また三日後の人を大事にしてあげようと思います。
三日後の人ではなく、今、目の前の人を大事にすること。
ただひたすらその人を大事にしてあげること。
その刹那、刹那に心をこめて生きていくということに尽きます。
お釈迦さまの言われたこの刹那という言葉は、のちに「刹那主義」という言葉を生みました。
辞典で「刹那主義」を調べると、「今がよければ、あとはどうなってもよいと思うこと」という意味で使われていますが、本当の「刹那主義」とは、お釈迦さまが最初に唱えた「刹那」を生きることです。
それは、今この一瞬、一瞬を最大限大事にして生きることにほかなりません。
今、この刹那を大事にしないで、いつ、どこで、誰を大事にするというのでしょう。
考えて見れば、私たちは今、目の前にいる人、目の前にあること以外に、大事にすることはできません。
昨日の人を抱きしめることは出来ないし、明日会う予定の人を、今、抱きしめることはできません。
今、目の前の人を抱きしめること。
その人に最大限、自分の笑顔を向けること。
「私の」持っている言葉を贈り物としてあげることです。
「私の口から出てくる言葉は、全て贈り物でありたい」と良寛和尚は考えていました。
自分は貧しい僧侶であるから、人に贈り物をしてあげたいが、あげるものがない。
だから、せめて言葉を贈り物としよう。
そして、自分の口から出てくる言葉は常に温かいもの、人を優しい気持ちにさせるもの、思いやりに満ちたもの、人を励ますもの、勇気づけるもの、心を安らげるものでありたい。
良寛和尚はそう思い、それを実践しました。
どんなときでも、どんなひどいことをされても、良寛和尚の口から出てくる言葉は、そういう珠玉(しゅぎょく)のような贈り物でした。
『「き・く・あ」の実践』サンマーク文庫
2001年、9月11日のアメリカの同時多発テロのあとに有名になった詩がある。
『最後だとわかっていたら』というものだ。
あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしはあなたを抱きしめてキスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて
抱きしめただろう
・・・・
我々は、この瞬間が最後だとわかっていたら、悔(く)やむことはたくさんある。
もっと優しい言葉をかけておけばよかった、もっと笑顔で接すればよかった、と。
明日もあると思うから、この瞬間を無駄に使ってしまう。
アメリカの9.11や、日本の3.11の震災を見るまでもなく、この世の誰もが、数分後に生きている確かな保証などない。
だからこそ、人には笑顔で接し、言葉は人を喜ばすことに使いたい。
心のこもった優しい言葉、それを愛語という。
口から出てくる言葉すべてが、珠玉のような贈り物、「愛語」でありたい。 |
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