2013.3.15 |
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ひらめきは読書の量に比例する
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赤根祥道氏の心に響く言葉より…
北条早雲は『早雲寺殿 廿一(にじゅういち)箇条』の中で読書についてこう教えている。
「少しの隙(すき)あらば、物の本をば、文字のある物を懐に入れ、常に人目を忍び見るべし。
寝てもさめても手馴れざれば、文字忘るるなり、書くことまた同事」
戦国時代の幕を切って落とした英雄が、少しの隙があれば、人生の糧になる本を読んでいたのだから驚かされる。
今日はどうにか命があったが、明日はどうなるかわからないとう乱世にあって北条早雲は片時も本を手放さない。
若い頃、京都の建仁寺や大徳寺で学問や禅を学び、宗瑞(そうずい)という法名までもらっていたというのも本当ではないだろうか。
苦手だからとか時間がないからというような言い訳は通用しない。
いずれ、恥をかき後悔させられるのは自分自身なのである。
週刊誌を読むのも結構だが、もっと大切な書物があることを認識して、その書物を通して学び、自分を磨いてみる努力をしようではないか。
常に何か一冊持ち歩いて、暇さえあれば読むという習慣を身につけたいものである。
『この“心がけ”ができる人 できない人』三笠書房
読書の量は、「ひらめき」の量に匹敵するという。
知識という材料がなければ、どんなアイデアマンでもひらめくことない。
ひらめきとは、知識と知識の組み合わせだからだ。
戦国時代という生きるか死ぬかの世界であるからこそ、その「ひらめき」が生死を分けた。
現代においてもそれは同じで、「ひらめき」がある人が運を引き寄せる。
また、読書によって得た知識は、人に教えるとか、実践で使うとかという、「出す」というアウトプットの作業が必要だ。
ためこんだだけの知識は、いつかは腐る。
アウトプットすればするほど、読書というインプットは進化する。
「ひらめきは読書の量に比例する」
寸暇(すんか)を惜(お)しんで読書にいそしみたい。 |
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