2013.2.20 |
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ただひたすら夢中になる
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臨済宗相国寺派、有馬頼底管長の心に響く言葉より…
田中芳州(ほうしゅう)老師という素晴らしい禅僧がおられました。
ある時、老師がおられた禅堂の30メートルほどある廊下の屋根を支える柱が腐ってきたので、改修工事をしたのです。
そしてその腐った柱の一部が庫裏の裏に置いてあったのですが、それを雲水の一人が持ち帰って、中をくり抜いて花入れを作ったのです。
それを見つけた老師は、これは誰が作ったのかと尋ね、「私が作りました」と答えた雲水に、「今すぐ出て行け」と一喝したのです。
そう言われた本人が私のところにきて、
「なぜ出て行かないといけないのか」
と泣いていました。
なぜ、それがいけないのか。
禅宗の道場にきた若い修行僧が、他へ向けて心を移すということが、根本的に間違いなのです。
『臨済録』にある言葉ですが、「純一無雑(しゅんいつむざつ)」でないと駄目なのです。
修行に来ていながら、花入れをつくるという根性では駄目なのです。
ただ純一に、修行をしなければいけない。
集中して修行をする時は、他に心を奪われてはいけない。
今、取り組んでいることにひたすら夢中になること。
それは実は、とても難しいことでもあるのです。
千日回峰行という言葉をきかれたことがあると思います。
千日回峰行は、千日間、山道を行く。
それも駆け足で。
肉体をさんざん酷使する。
ところが精神的には、何もダメージを受けないといいます。
逆に嬉しくてしかたなくなる。
一番しんどいのは最初の方だけで、肉体的には相当ダメージを受けているけれど、精神的にはダメージを受けないから、身体が自然に動くのだそうです。
限界を体験することで、人間の能力は無限に引き出されるのですね。
『よろこびの禅』角川oneテーマ21
「花はただ咲く ただひたすらに
ただになれない 人間のわたし」
(相田みつを)
ただひたすらに、何の雑念も抱かず「純一無雑」に取り組めば、何事もいつか必ず成就する。
しかし、その「ただひたすら」という心境になかなかなれないのが人間。
横道にそれたり、よそ見をしてしまったりする。
心がここにないフワフワした状態だ。
ただひたすらとは、死ぬ気になって本気でやる、ということ。
目の前の仕事に、ただひたすら夢中になりたい。 |
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