2013.2.13 |
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こうなることは分かっていたと言う人
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樺旦純氏の心に響く言葉より…
ある大学のフットボールの試合で行なわれた、次のような実験がある。
試合の始まる前に、被験者の観客をランダムに二つのグループ(A・B)に分けた。
まず、Aグループにはその日のスコアを予測したものをカードに記入してもらった。
一方、Bグループには試合終了後、「試合が始まる前に、予想結果を聞かれていたら、どんなスコアを予測していたと思うか」と尋ね、それをカードに書いてもらった。
実験の結果、両者を比べたところ、Bグループの予測スコアはAグループの予測より実際の結果にはるかに近かった。
カードに記入した時点で、まだ結果を知らないか、すでに知ったあとかで、大きく違っていたのだ。
人は、自分にとって都合のいい情報を集めて、都合の悪い情報はできるだけ回避しようとする。
そしてまた、出来事が起こる前に結果を予想するのは難しいのに、結果が出ると、その結果をあたかも予想していたような錯覚を持ってしまう傾向がある。
「あの時、嫌な予感はしていたんだ」
「こういう結果は承知の上でやった」
というのは、予想したリスクよりひどいマイナスの結果になったときに使われる。
嫌なこと、苦しいことを好き好んでやりたがる人は少ないだろう。
いわば失敗の痛手から自分を守ろうとする手段でもある。
『ちょっとしたひと言で 疲れさせる人会いたくなる人』青春新書
誰かが失敗したり、負けたときに、
「ほんとは、前から失敗するかもしれないと思ってた」とか、
「あのとき実は、無理かなって感じてた」
「今回はなぜか、負けるような気がした」
と、後になってから言う人がいる。
「わかってるんだったら、やる前に言ってくれ」、といいたくなる。
だが、未来のことが分かる人はこの世には一人もいない。
それは、一瞬先の未来でさえ同じだ。
もし、1分後が正確に分かる人がいれば、株や為替やカジノの世界で、瞬時にして億万長者になれるだろう。
失敗した後なら、誰もがわかる。
他人の失敗を、前からさも分かっていたかのように、滔々(とうとう)と解説する評論家は嫌われる。
本当は、失敗を恐れずにチャレンジした人こそ尊い。
何回倒れても、言い訳せずに、立ち上がってチャレンジする人に心からの拍手を贈りたい。 |
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