2013.2.6 |
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天役を知る
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致知出版、藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
天はなぜ自分をこの世に生み出し、何の用をさせようとするのか、という天役を知るにはどうするか。
そこには三つの資質が浮かび上がってくる。
一つは、与えられた環境の中で不平不満を言わず、最善の努力をしている、ということだ。
一道を拓いた人たちに共通した第一の資質である。
住友生命の社長・会長を務められた新井正明氏はその典型だろう。
兵役にあった氏はノモンハン事変に参線して被弾、右足を付け根から切断した。
二十六歳だった。
帰還した兵を会社はあたたかく迎えてくれたが、若くして隻脚(せっきゃく)の身となった苦悩は限りなく深かった。
その最中(さなか)、新井氏は安岡正篤師の『経世瑣言(けいせいさげん)』で一つの言葉…「いかに忘れるか、何を忘れるかの修養は非常に好ましいものだ」に出会い、翻然(ほんぜん)とする。
「自分の身体はもう元には戻らない。
ならば過去のどうにもならないことを悩むより、現在自分が置かれているところから将来に向って人生を切り拓いていこう」
この瞬間から新井氏は真の人生を歩み始めた。
二つは、「他責」の人ではなく「自責」の人、であることである。
幸田露伴が『努力論』の中でこう指摘している。
大きな成功を遂げた人は失敗を自分のせいにし、失敗者は失敗を人や運命のせいにする、その態度の差は人生の大きな差となって現れてくる、と。
三つは、燃える情熱を持っていること。
当時八十六歳だった明治の実業人浅野総一郎氏が五十代だった新潮の創業者佐藤義亮氏に語った言葉が滋味深い。
心耳(しんじ)を澄ませたい。
「大抵の人は正月になると、また一つ年を取ってしまったと恐がるが、私は年なんか忘れている。
そんなことを問題にするから早く年がよって老いぼれてしまう。
世の中は一生勉強してゆく教場であって、毎年毎年、一階ずつ進んでゆくのだ。
年を取るのは勉強の功を積むことに外ならない。
毎日毎日が真剣勝負。
真剣勝負の心構えでいる人にして初めて、毎日のように新しいことを教えてもらえる。
私にとって、この人生学の教場を卒業するのはまず百歳と腹に決めている。
昔から男の盛りは真っ八十という。
あなたは五十代だそうだが、五十など青年。
大いにおやりになるんですな」
三本の柱が立って物は安定する。
人生を安定させる三つの柱を忘れぬ生き方を心掛けたい。
『月刊致知 2013年3月号』致知出版社
年末には、いたるところで忘年会が行なわれる。
その「忘年」というのは、一年の嫌なことを忘れ、水に流して楽しむ、という意味ではない。
中国の漢の大学者孔融(当時50歳)と禰衡(でいこう)(20歳)との、年齢差を忘れた交流を、「忘年の交」とよんだ故事によるものだ。
たとえ年長者であっても、若者から学ぶことは大いにある。
もちろんその逆が必要なことは言うまでもない。
年を忘れ、嫌なことを忘れることは、生きいく上でとても大切なこと。
そして、日々を新たに生まれ変わった気持で、情熱的に生きること。
天役を知るには、「最善の努力をする」、「『他責』ではなく『自責』で生きる」、「燃える情熱を持つ」の三つ資質が必要。
だれのものでもないこの自分の人生を、天役を知って生きたい。 |
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