2013.1.12 |
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そこに助けを求めている人がいる
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曽野綾子氏の心に響く言葉より…
戦後日本が妄信してきた民主主義は、電気が止まるのと連動して一時停止する、せざるを得ないものです。
民主主義が消えると、今まで使い馴れていた法律や規則の意味がなくなります。
恒久的な最高法規とされている憲法から会社の就業規則のようなものまで、それまで従っていたルールが失われてしまう。
いわば「超法規」の中では、個人一人ひとりが対処する他ありません。
これは政府の被災者への初期対応にも表れていました。
道が寸断されて救援が入れず飢えと寒さに苦しんでいる人たちへ、なぜ物資の空中投下(エア・ドロップ)ができなかったのか。
水や食糧、暖をとる携帯カイロや毛布など、急場をしのぐ最低限の物は投げ落とせばどんな所にだって届くんですけどね。
物資の投下は海外では常識です。
それをしなかったのは法規上の理由からだそうです。
だいぶ前のことですが、私が携わっている海外邦人宣教者活動援助後援会から「国境なき医師団」へ寄附をした縁で、日本での講演会に招かれました。
講演が終わって質疑の時間に移った時、日本側の学生らしい質問者の一人が尋ねました。
「あなたがたは、活動する国での医師法をどうクリアしているのですか?」
彼らは世界中の硝煙立ち込める紛争地や、被災地の瓦礫に囲まれて非常時の活動をしているのです。
フランスの医師は一瞬絶句してから、逆にこう問い返しました。
「そこに怪我をした人や病人がいる。
私たちは医師としての技術と、医療品を持っている。
助けを求めている人を救うのに、それ以上何のルールが要るのですか?」
この質問こそ、最近の「知的な」日本人の典型的な形でしょう。
より、ルールにどう抵触しないかしか考えない人たちです。
法律も制度もあくまで人間が作ったものであって、非常時には停止したり、弱体化したりもする。
やがて状況が落ち着いて常態に戻った時にはルールの世界に戻るとしても、非常時にはそれを壊して生きる必要があるのです。
『人間の基本』新潮新書
今回の東北大震災で我々日本人は、戦争に匹敵するような非常時の対応を迫られた。
戦時や非常時には、野生のカンや動物的な本能で生きていくしかない。
だが、太平の世をのんびりと生きてきた我々にとって、一番欠けているのがこの野生の力だ。
目の前に助けを求めている人がいるのに、見てみぬふりをする。
今そこに危機があるのに、気づこうともしない。
そして、他人の痛みを感じることができない。
人間として最低限必要な感じる力という、「感性」が鈍っているとしかいいようがない。
今一度、生き抜くための、野生の感性を取り戻したい。 |
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