2013.1.8 |
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人生は何度でも勝負できる!
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中野明氏の心に響く言葉より…
農場の手伝いからペンキ塗り。
ペンキ塗りから再び農場の手伝い、さらに路面電車の車掌。
路面電車の車掌から軍隊入隊、除隊後に鍛冶屋見習いに。
鍛冶屋見習いから機関車の灰さらい、さらには機関士へ。
機関士からなぜか弁護士実習生に転身。
弁護士実習生から保線作業員、さらにプレデンシャル保険のセールスマン。
保険セールスマンからフェリー運行会社を設立。さらに商工会議所の秘書。
秘書を辞め、フェリー会社からも手を引きアセチレン・ライト製造販売会社を設立。
アセチレン・ライト製造販売会社が倒産し破産。
ミシュラン・タイヤのセールスマンに。
大けがのあとスタンダード石油のサービス・ステーション(ガソリンスタンド)を経営。
世界恐慌の影響でサービス・ステーションが破綻。
シェル石油のサービスステーションを経営。
サービス・ステーションにレストランを設置。この頃助産士の仕事もする。
サービス・ステーションにモーテルを併設し事業は大成功。
と思いきや、レストランとモーテルが全焼。それでも必死の覚悟で再建する。
第二次世界戦中はテネシー州にある軍のカフェテリアで運営責任者に。
巨額な税金の支払いで実質破産する。
モーテル事業が再び軌道に乗ると州議会議員に出馬。しかし落選。
事業不振でレストランとモーテルを売却。65歳で無一文になる。
ご覧のようにこの人物は目まぐるしく職業を変えている。
しかも浮き沈みが激しく、成功したと思ったら失敗し、再びそこから立ち上がる。
これを繰り返すという人生だった。
ではこの人物とは誰のことか。
実はこの経歴の持ち主こそがカーネル・サンダースにほかならない。
白髪に白い口ヒゲとやぎヒゲ、白いスーツに蝶ネクタイでステッキを片手ににこやかに両手を広げる…。
とはいえ、この経歴にはケンタッキー・フライドチキンのフランチャイズ・ビジネスがどこにも書かれていない。
なるほど。それもそのはずだ。
カーネルがフライドチキン・ビジネスへと本格的に邁進するのは、65歳で無一文になってからのことだからだ。
それから90歳でこの世を去るまで、カーネルはケンタッキー・フライドチキンの顔として活躍する。
この90年の人生の中でカーネルには死に至るかもしれない危機が少なくとも4度あった。
銃の撃ち合いや、車の事故だ。
これらに加えて度重なる破産である。
やがてカーネルは、これらの人生の危機をくぐり抜けて生きてこられた理由を次のように考えるようになる。
「神様は何か特別なことをワシにさせるために命を救ったのではないか」というように。
『カーネル・サンダースの教え 人生は何度でも勝負できる!』朝日新聞出版
カーネル・サンダースは世界で初めてフランチャイズ・ビジネスを生み出した人。
いつも、にこやかで温厚なイメージのサンダースおじさん。
しかし、若い頃はすぐに頭に血が上り、ケンカっ早くて、下品な言葉を人に浴びせていたという。
「できることはすべてやれ。やるなら最善を尽くせ」が、カーネルのモットーだった。
モーテル(郊外のホテル)を始めたときも、相場より高い室料だったが、徹底したサービスを提供したという。
客室には防音壁を用い、全室をエアコン装備。
ベッドは上質のマットレスで、寝心地は極上。
お客がチェックインして部屋に入ると、5〜10分後にウエイトレスが現れてコーヒーを届けてくれる。
ウエルカム・サービスだ。
さらにウエルカム・フルーツも全てのお客に提供された。
雨が降っていたら駐車場まで従業員が出迎えてお客に傘を差し出す。
それでいてチップは一切受け取らない。
これらの厚いおもてないしに加えて自慢の料理の提供だ。
焼き置きではない、熱々の焼きたてのビスケットが自慢だった。
何と4年半も一切空き室が出ない状況が続いたという。
(以上、同書より)
カーネルがモーテルを作ったのは1937年、今から80年近く前のこと。
その当時に、この徹底したサービスは奇跡のようなことだった。
昔も今も、人と違ったアイデアがあれば商売は繁盛する。
そして、アイデアがある人は、何の商売でも成功する。
できることを、ベストを尽くしてすべてやれば、「人生は何度でも勝負できる」
何度倒れても、立ち上がる不屈の人でありたい。 |
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