2012.10.18 |
|
真価が問われるとき
|
|
明治大学教授の諸富祥彦氏の心に響く言葉より…
オーストリアの精神科医、ヴィクトール・フランクルがナチスによってアウシュビッツ収容所に囚われていたとき、目の当たりにしたのは、飢餓状態で他人のパンを奪い取る人もたしかにいた一方で、極度の飢餓状態の中にあって、それでも自分のパンを半分、ほかの囚人に分けてあげる囚人もいたというのです。
死と紙一重の状態に追い込まれてもなお、たえず他人をいたわり、聖人のように振る舞っている気高い精神をもつ人々をフランクルは目の当たりにしたのです。
フランクルはこういいます。
「人間の気高い精神はいかなる極限状態に陥っても失われることはない」のだと。
彼らはなぜ、気高い精神を保ちえたのでしょうか?
それは、死をも目前にした極限状況であったからこそ、そこで、どう振る舞うかによって、自分という人間の真価が問われていることを、彼らは直感的に知っていたからではないでしょうか。
いわゆる「極悪人」とみなされている人でも、死の直前には、人間の精神の輝きをかいまみせることがあるのです。
たとえば、暴君と呼ばれ、比叡山を焼き討ちにし僧侶を大量虐殺するなどの行為をくり返してきた織田信長。
信長は本能寺明智光秀の謀反に遭ったとき、侍女を部屋に集め、こういったというのです。
「光秀はワシと違って根はものすごくやさしい人間だ。
罪もない女・子どもを殺したりはしない。
だから、ワシのことなどかまわず、さっさと逃げろ」
また、小姓に対しても、こう語ったといいます。
「おまえたちも降伏するなり逃げるなりするがいい。
光秀が狙っているのはワシのクビだけだ。
ワシにつきあっておまえたちまでいのちを落とすことはない」
『「運命の道」は見つけられる』サンマーク出版
人は、極限状態に陥ったとき、隠れていたその人の本質が出る。
大震災の後、原発事故が起きたとき、官邸において、まわりに怒鳴り散らした政治家がいたという。
人間は、どんな状況においても、その一挙手一投足を、周りにしっかりと見られている。
たとえ、仕事の場であろうが、遊びの場であろうが、常に、その人の真価が問われていると言っていい。
パニックが起きたとき、そこで取り乱さず、しかもまわりに気配りできる人には、人間として崇高な気高さがある。
自分のことしか考えていない人間は、うろたえ、あさましい姿をさらけ出す。
極限状態のとき、どんなふうに振る舞うかで、人間の価値が決まる。 |
|
|