2012.10.3 |
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甕(かめ)の如き胆力
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松原泰道師の心に響く言葉より…
個人が危険な目にあう災難があるように、日本の国にも、国家・国民全体が受けた危難がたびたびあった。
それを「国難」という。
今世紀に受けた第二次世界大戦の敗戦は、わが国が受けた最大の国難である。
それまでは、国難といえば「元寇(げんこう)」が挙げられた。
鎌倉時代の末期に近い1274年に、当時の中国を支配していた元の国王フビライが、日本に使者をよこして、日本の入貢を要求したが、鎌倉幕府はこれを拒否して、使者を帰した。
フビライは怒って日本の国に攻めよせ、壱岐(いき)や対馬など日本の領土が一時元軍に侵略された事件を「元寇」と呼ぶ。
「寇」は「あだをする・攻め入る・人や財産を殺したり奪ったりする」意味である。
当時の幕府の最高指導者は執権職の北条時宗(ときむね)である。
このとき時宗は23歳の青年だった。
翌75年に重ねて日本の入貢を要求した元の使者を、彼は鎌倉の由比ガ浜で斬る。
81年、時宗が30歳のとき元軍の第二次来襲を受ける。
このときの元軍は前回にも増した15万の大軍の侵入だが、彼は沈着にこれを迎え撃ち退却させた。
勝利を得た大きな原因に、突如大風が吹いて多くの敵船を沈めたいわゆる「神風(かみかぜ)」が挙げられる。
しかしすべてを天の佑(たす)けとするのは当たらない。
上下一致団結の愛国心と、勇猛な将兵の努力が、よき指導者のもとで実を結んだからである。
時宗は、自分から進んで戦争を計画したのではない。
元のフビライから仕掛けられた日本民族の危機に、彼は止むなく起ったまでだ。
彼は元寇の役が終った3年後に、33歳の若さで没した。
彼はこの国難に心身をともにすり減らしたのである。
時宗が師事した一人に、彼が中国の宗から招いた禅僧の無学祖元(むがくそげん)がある。
ある日、彼は祖元に「私は臆病(おくびょう)でこまる。気が小さくてこまる」と悩みを訴えている。
的確に自分を「小心・臆病」と認知できたら、その人はすでに小心者でも臆病者でもない。
このとき、時宗はすでに、「甕(かめ)の如(ごと)き胆力(たんりょく)」を自分の中に据(す)えたと見るべきであろう。
祖元は「莫煩悩(まくぼんのう)」(煩悩するなかれ)と三文字を書いて時宗に与えた。
自我への偏愛を捨てよということである。
そして、第二次来襲のときに、「驀直進前(ばくじきしんぜん)」とだけ告げる。
あれこれとおもいわずらわず、ただまっすぐに進め…と。
「莫煩悩」を積極的に展開すると、「驀直進前」となる。
思いあがりを恐れる小心があれば、逆境も悲運もみな頭を押さえてくれる良き師となる。
病み、悩む体験によって、すこしでも自分を深め、高めたいとの気が起きたら、病中や逆境にありながら、しかも病気や逆境をその人は超えているのである。
病気や逆境に成り切って、はじめて煩悩が起きても煩悩が作用する余地がなくなる。
莫煩悩や驀直進前、とはそういうことである。
『人生の極意』PHP文庫
藤田東湖が吉田松陰に贈った言葉がある。
「国難襲来す。
国家の大事といえども深憂(しんゆう)するに足らず。
深憂とすべきは人心の正気の足らざるにあり」
(感奮語録より)
正気が足りないとは、気力と気迫がなくなることだ。
個人の病気やトラブル、また会社の危機、あるいは国難にあっても、それは同じこと。
むしろ、心配すべきは、危難そのものではなく、人々に気力と気迫がなくなってしまうこと。
できることなら…
甕(かめ)の如き胆力を身につけたい。 |
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