2012.8.25 |
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遊戯三昧(ゆげざんまい)
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藤原東演住職の心に響く言葉より…
「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という禅語は、「無門関」の第一則に出てくる。
我を忘れて、無心に遊んでみないか。
仕事も、趣味も、生活でなすことも、さらには人生の運不運もすべて遊び心で生きることがすばらしい。
仕事は成果をあげなくてはならない。
「何かのため」という意味づけが不可欠だ。
ところが、遊びは何かのためにという目的がない。
その成功とか失敗なんか関係がない。
成果など計算したら、それは遊びではない。
人の評価も気にする必要がない。
ただやることが面白い、楽しいからやるのである。
第二次大戦でイギリスをナチから救ったチャーチル首相は、激務の中、家に帰ると暇を作っては庭にひたすらレンガをひとつひとつ積み重ねて塀を造ることに興じた。
次の日、庭師がすべて取りこわしてしまうのに。
懸命に働いて、余暇に遊んで気分転換をはかることはそれなりの価値がある。
だがあくまで仕事と遊びが対極にあるわけで、それでは禅の「遊戯三昧」の境地ではないのである。
山田無文老師は真の「遊戯三昧」の境地をこう教えている。
「働くことがそのまま遊びなんです。
人のためにすることがそのまま遊びなんです。
苦しい目に逢うこともまたそのまま遊びなんです」
『禅、「あたま」の整理』知的生きかた文庫
東大教授でありながら、山林王でもあり、大富豪であった、本田静六翁は「仕事を道楽化せよ」と言っている。
仕事を、好きになるまで必死の努力をすれば、それはいつかはその道のプロと呼ばれるようになる。
そして、プロ中のプロとなれば、仕事はまるで芸術活動のようでもあり、趣味との境はなくなる、ということだ。
気分転換に遊ぶのもいいが、仕事も、苦も、生老病死、すべてが遊び、というのが最高の境地。
「人生とは、冥土(めいど)までの暇(ひま)つぶし』と言ったのは、今東光和尚。
自由自在の、遊戯三昧の人生を歩めたら最高だ。 |
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