2012.6.29 |
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そりゃあよい考えだ
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日本初の南極越冬隊長、西堀栄三郎氏の心に響く言葉より…
明治43年(1910年)に、南極探検を発想した白瀬中尉は、当時の技術力、交通、
生活環境から見て、大多数の人たちから反対され、馬鹿あつかいされました。
そのとき、たった一人の“大物”だけが、「そりゃあよい考えだ」と乗ってきて、
あの南極探検の偉業は達成されたのです。
その“大物”は、政治家で、早稲田大学の創立者でもある大隈重信公でした。
白瀬中尉の南極探検に乗り気を起こし、実現に努力した大隈公は、中尉の出発のときに、
「南極は暑いから、からだに気をつけろ。南洋でさえあれほど暑いのだから、
もっと南の南極はよほど暑かろう」
といったそうです。
“大物”は、こまかい点については、むしろ無知のほうがよい場合が多いのです。
ただ「そりゃあよい考えだ」の精神が、“大物”の真髄といえるでしょう。
アイデアが奇抜であればあるほど、反対され、発案者は疎外されることがしばしばあります。
もし、そのとき“大物”がいて「育てる」ことをしなければ、その人は二度と提案しなくなるでしょう。
その育てる誰かというのは、実は、その人の上役であろうと思うのです。
すなわち、アイデアをモノにするためには、馬鹿と大物が揃わなければならない、ということなのです。
大物というのは、実はアイデアの内容を詳しく知っている必要はない。
なまじっか知っていると自分も批判したくなってきます。
つまり、アイデアの内容は知らなくても、何か知らんがこんどのアイデアはおもしろそうだぞ、
あの提案した男はなかなかおもしろい人物だぞ、といった式の、
これこそきわめてノンロジックな「何かしらんがそう感ずる」という、いわゆる第六感といいますか、勘です。
ロジックばかりやって、批判ばかりやっている青白いインテリでは、アイデアは育ちません。
親心というのは後輩の創造性を育ててやる人のことです。
『新版 石橋を叩けば渡れない』生産性出版
幕末の動乱期、日本において、若い下級武士たちが、なぜあれだけ活躍できたのか。
なぜ、20代そこそこの若者たちが、国を動かすような、トップリーダーとなることができたのか。
それは、彼らが肉体的にもタフで、エネルギーにあふれていた、というのはもちろんのことだが、
忘れてはいけないのは、彼らの活躍を認め、後押した、多くの上司なり、年長者たちがいた、
という事実だ。
彼ら、若者たちがどんなに優秀であろうが、その時権力を持っていた先輩たちが
彼らの活躍を本気で潰(つぶ)しにかかったとしたら、その後の彼らの活躍はなかっただろう。
現代においても同様に、プロスポーツで成功した選手たちや、起業に成功した事業家たちにも、
彼らを認め引き立ててくれる、監督なり、先輩たちがいたからこそだ。
どんなにユニークなアイデアを持っていても、それを「面白い!」と認めてくれる人がいなければ、
それは世に出ることはない。
突飛(とっぴ)なことを言ったとしても、「そりゃあよい考えだ」と、
認めてくれる人には限りない魅力がある。 |
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