2012.3.30 |
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従順ならざる唯一の日本人
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NHK「その時歴史が動いた」の中から、心に響く言葉より…
昭和20(1945)年のクリスマスの日、
GHQと政府各省庁との連絡のため設けられた終戦連絡中央事務局に、
当時43歳だった白洲次郎が姿を見せます。
それは、マッカーサー元帥に昭和天皇からの贈り物を届けるためでした。
「適当にその辺にでも置いてくれ」
ぞんざいに扱うマッカーサーに、白洲は激怒します。
「天皇からの贈り物を、その辺におけとは何事か!」
その剣幕に、さしものマッカーサーもあわてて謝ったといいます。
最高権力者にさえ物怖じしなかった白洲には、一つの信念がありました。
「我々は戦争に負けたのであって、奴隷になったわけではない」
イエスマンばかりの日本政府の中で、はっきりものを言う白洲次郎は、
GHQによって「従順ならざる唯一の日本人」と記録されています。
白洲次郎は、明治35(1902)年、兵庫県芦屋の実業家の家に生まれました。
19歳の時、イギリスの名門ケンブリッジ大学に入学。
昭和3(1928)年に帰国後、伯爵樺山家の令嬢、正子と結婚、貿易業に携わり、
海外を飛び回る生活を送るようになり、やがて樺山家と親しかった外交官・吉田茂と知り合います。
敗戦の翌月、白洲は終戦連絡中央事務局の責任者として抜擢され、
新憲法の草案づくりなどに参画することとなります。
白洲は、自らの手記に、「今に見ていろという気持を抑えきれず。ひそかに涙す」と記し、
GHQの主導でつくられたこの憲法こそ敗戦国の厳然たる現実を露出したものだと
悔しさを滲(にじ)ませています。
83歳でこの世を去りますが、「葬式無用、戒名(かいみょう)不用」という、
型破りな人生を駆け抜けた男らしい遺書が残されていました。
「私は『戦後』というものは一寸(ちょっと)やそっとで消失するものだとは思わない。
我々が現在高らかに唱えている新憲法もデモクラシーも、
我々のほんとの自分のものなっているとは思わない。
それが本当に心の底から自分のものになった時において、
はじめて『戦後』は終わったと自己満足してもよかろう」
『その時 歴史が動いた 心に響く名言集』知的生き方文庫
「矜持(きょうじ)」という言葉がある。
自信と誇りであり、堂々と振る舞うことである。プライドとも言われる。
人生において何かに負けることは多くある。
負けたあと、あまりのショックに、自らの矜持まで捨ててしまい、「どうせ自分なんか…」と、
卑屈(ひくつ)になったり、投げやりになったりする人がいる。
負けたと言っても、勝負や、競争といういわばゲームに負けたのであって、
全面降伏して奴隷になったわけではない。
どんなときも、己の誇りを失わず、堂々とした人生を歩みたい。 |
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