2012.3.29 |
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江戸の一本桜
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『江戸の庶民の朝から晩まで』の中から、心に響く言葉より…
江戸で桜の名所として有名だったのは、上野の寛永寺だ。
この花見の習慣、もともとは「一本桜」といって、一本の桜の名木を楽しむものだった。
江戸には、三十三桜と呼ばれる名木があり、三間もあるような大きな老木が珍重された。
そして、たとえば武家であれば、酒をひょうたんに入れてお供をひとり連れ、
その名木の下へ行って花を愛でながら酒を嗜(たしな)む。
町人でも教養のある者は、静かに歌を詠んだりして過ごす…これが本来の花見だったのである。
ところが、天保(1830年)の頃になると、
「飲んで食べて騒ぐのが花見ってもんよ」という江戸っ子連中が現われた。
なにしろ、この連中は飲んでおおはしゃぎするのが目的だから、一本桜などには目もくれない。
「いっぺんに咲いていたほうが派手でいいじゃねぇか」というわけで、
やがて桜の木がズラリと並んでいる場所が、人気のお花見スポットになっていったのである。
めずらしいところでは、吉原遊郭でも花見をすることができた。
といっても、もともと吉原に桜の木はない。
毎年三月になると、よそから桜の木を移植してきて、わざわざ桜並木をつくったのである。
「昨日まで ない花の咲く 面白さ」と川柳にも詠まれているが、
夢を売る吉原ならではの手の込んだ趣向であった。
『江戸の庶民の朝から晩まで』KAWADE夢文庫
毎年この時期になると、「深山(みやま)の桜」の話を思い出す。
深山の桜は山奥にひっそりと咲く一本桜の大木だ。
はじめの頃は、誰も気づかないので、そこまでの道がない。
しかし、何年かたつうち、人々の間で少しずつ知られるようになり、多くの人が通い、
その桜木までの道ができる。
さらに年月が過ぎると、道はさらに太くなり、ふもとに家も建ち、店もできる。
深山の桜は、自ら誇ることもしないし、宣伝することもない。
人や店も同じで、その人(店)に本当の魅力があるなら、威張ったり、
虚勢をはらずとも、その人(店)にひと目会いたいと国中から人は集まる。
「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛禅師)
桜は己を誇らず、ただ咲いて、ただ散っていく。
深山の桜のような、魅力ある人でありたい。 |
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