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2012.3.20

ヘレン・ケラーが尊敬した日本人

『13歳からの 道徳教科書』の中から、心に響くお話です…

アメリカの教育家・社会事業家のヘレン・ケラー(1880〜1968)の名前は、世間に広く知られています。
目が見えず、耳が聞こえず、話すこともむずかしいという苦難の中で、言葉を覚え、知識を身につけ、

21歳でみごとハーバード大学付属のラッドクリフ女子大に入学。

その後は、視聴覚に障害を持つ人々に対する偏見や差別をなくすため、

アメリカ国内はもとより世界各国で講演を行ったほか、数々の福祉事業の発展に生涯をささげた人です。

では、そのヘレンが、人生の目標として尊敬した日本人がいたことをご存知でしょうか。
その人の名は塙保己一(はなわほきいち)。

ヘレンは、その塙保己一について次のように述べています。
「私がまだ小さいとき、母は塙先生のことを、繰り返しこう話してくれました。
『ヘレン、日本には幼いときに失明し、しかも点字も何もない時代に、努力して学問を積み、

一流の学者になった塙保己一という人がいたのですよ』と。
時にはくじけそうになったこともありましたが、この母の励ましによって現在の私があるのです」

塙保己一は、今からおよそ200年前の江戸時代後期の国学者です。
7歳のころに病気で失明しましたが、勉強好きで記憶力のよい保己一は、学問で生きることを決意し、

15歳で江戸に出て、雨富(あめとみ)検校のもとに弟子入りします。

雨富検校は、当時、目の不自由な人の仕事とされていた

三味線や琴、鍼やあんまなどを行う人々を監督していました。

ところが学問好きの保己一は、その生活になじめません。
悩み苦しんだ保己一は、川の淀みに身を投げてしまいました。

幸い一命はとりとめたものの、仲間内では「落ちこぼれ」扱いされたのでした。
しかし、保己一の望みを知り、その才能を見抜いた雨富検校は、

「三年間だけ好きな学問をしてよい」と言って励ましてくれました。

意欲を取り戻した保己一は、懸命に勉学に打ち込みました。
人並みはずれた記憶力を持つ保己一の噂は広まり、縁が縁を呼んで学者への道が開けていき、

やがて大学者として世間から認められるまでになったのです。

保己一は、いったん大きな挫折を経験したことから、

その際に自分を支えてくれた師匠の温かさや多くの人々の励まし、その大切さ、大きさに気づきます。
そのため彼は、自分に与えられた能力と人生を、自分のためにではなく、

人々のため、世の中のためにささげることを決心しました。

34歳のとき、保己一は各地に散らばる貴重な古書を集めて本にすることを志しました。

40年後の74歳のときに完成したのが『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』です。
『群書類従』は、法律、政治、経済、文学、医学など、あらゆるジャンルの貴重な史料が収められた

666冊におよぶ大全集で、今日でも日本の故事を研究するのに欠かせない書物です。

『13歳からの道徳教科書』育鵬社


奇跡の人、ヘレン・ケラーが尊敬し、目標としていた唯一の日本人が塙保己一。
日本を初めて訪れたときも、塙保己一ゆかりの温故学会を訪れ、保己一の像と対面している。

保己一の日本の史料編纂(へんさん)は、現在も営々として引きつがれている。
編纂の形式は、最初に要約を記し、後に史料を原文で引用していくという方法をとっているが、
これは保己一がつくりあげたやり方を、現在でもそのまま踏襲しているという。

点字もないし、録音する道具もない時代、、不屈の意志力と熱意で、幕府を動かし、金策し、

今でいう大学と研究所を創設し、出版事業までやってのけた保己一。

ある夜、保己一が源氏物語の講義をしていたが、風のため灯かりが消えてしまったという。
弟子があわてて、「先生、ちょっとお待ち下さい」と言ったところ、

事情を知った保己一は、「さてさて目明きとは不自由なものだなあ」と笑ったという。

「障がいは不自由であっても、決して不幸ではありません」と語るヘレン・ケラーと共通する、

どこか突き抜けた、さわやかさがある。

江戸時代の川柳で、「番町にすぎたるものが二つあり、佐野の桜と塙保己一」

と詠われたほど、庶民にも人気があった保己一。

不撓不屈(ふとうふくつ)の人、塙保己一を日本人の誇りとしたい。



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