2012.3.14 |
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驚きの心を取り戻す
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M・Jライアン氏の心に響く言葉より…
このあいだ、1歳になる娘を初めて動物園に連れて行った。
象を見たとたん、娘の目の玉が飛び出しそうになった。
そして、初めてアイスクリームを買い与えたときの喜びようといったら、とどまるところを知らなかった。
小さな身体をくねらせ、瞳を輝かせて、大きく顔をほころばせた。
たしかに象は驚くべき生き物だし、アイスクリームは何度口にしても最初のときと変わらずおいしい。
だが、大人は驚きの心を失くしてしまっているから、子供ほどありがたみを感じられないのだ。
驚くことにかけては、子供に勝る教師はいない。
驚きは生まれたときから自然に備わっているが、生きることに無感覚になるにつれて、見失いがちだ。
驚くことは、生きることに驚かされたいという意欲の表れであり、感謝の念は驚くことから湧き出るもの
だから、感謝の訓練を積むには、夕焼けの神々しさや、肩を揉んでもらう贅沢さや、
他人の親切といったことに驚きの念をかき立てられる必要がある。
大人であることの問題点は、関心を失っていることだ。
ああ、いつものきれいな夕焼けか。
いつもの豪華な食事か。
いつもの誕生日プレゼントか…。
驚きの感覚はすぐにでも取り戻すことができる。
五感を開け放ち、世界を新しく自分のなかに取り込むだけでいい。
ゆとりをもち、初めてのようにまわりの世界を五感で感じれば、絶えず驚きに触れられる。
驚きに触れるとき、最も平凡で、最も非凡なもののありがたみがわかるのだ。
『人生に奇跡を起こす たったひとつの教え』ディスカヴァー
『武蔵野』を書いた国木田独歩の短編小説に「牛肉と馬鈴薯」という作品がある。
その中で主人公が一番の願い事としていること、それは政治家になることでもない。
事業家になることでもなければ、哲学者になることでもない。
もしこの願いさえ叶えられるならば、他は何もいらないと言っているもの。
それは、どんなことにでも「ハッ!」と出来る人間になることである
(行徳哲男)
何かをプレゼントしたとき、目を丸くして驚き、満面の笑みになる人と、
驚きもなく無表情のままの人とがいたら、どちらにまたプレゼントしたくなるだろうか。
プレゼントだけでなく、食事をするとき、映画や、音楽や美術の鑑賞をするときでも、同じだ。
驚きや感動がない人と一緒にいても少しも楽しくない。
それは、驚きがない人からは、心からの感謝を感じないからだ。
小さなことや日常の中でも、「『ハッ!』とできる人」、
「いつも、ワクワク、ドキドキし、驚くことができる人」は魅力的だ。
どんなときでも、子供のような驚きと、ときめきを忘れないでいたい。 |
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