2012.1.24 |
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人間はなぜ礼をするのか |
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安岡正篤師の心に響く言葉より…
人間はなぜ礼をするのか。
それにはいい答えがあります。
「吾によって汝を礼す。
汝によって吾を礼す」
これはお互いがお辞儀をする説明として、最も簡にして要を得た言葉であります。
自分というものを通じて相手を、人を礼する、その人を通じて自分を礼する、
お互いに相礼する、人間たる敬意を表し合うのである。
法華経の中に「常不軽菩薩(じょうふぎょうぼさつ)」というのがある。
この菩薩は常に人に会えば、必ず相手を礼拝しました。
見ず知らずの人にも必ず礼拝をした。
これほどの人間尊重はありません。
現代の思想家、哲学者などはしきりに、「人間尊重」などといっているが、
あれは「権利尊重」以外の何ものでもない。
人間を一つも尊重しておらん。
本当の人間尊重は礼をすることだ。
お互いに礼をする、すべてはそこから始まるのでなければならない。
お互いに狎(な)れ、お互いに侮(あなど)り、お互いに軽んじて、何が人間尊重であるか。
お互いに人間を尊重する、尊重される人間になる、それにはまず自分から始めなければならん。
いくら人に注文したって駄目です。
だから自らを修めるということが一番最初なのであります。
『東洋人物学』致知出版社
講演会などで、講師に対して、一同が揃って礼をする習慣が絶えて久しい。
「一同、礼」という掛け声でする礼だ。
何かを教わるには、当然講師に敬意を払う必要がある。
謝金を払っているから我々はお客だ、というのが昨今の嘆かわしい風潮だ。
ことほどさように、日常においても、改まった礼をする機会がない。
挨拶とは、元々は禅の言葉だ。
「一挨一拶」(いちあいいつさつ)という。
「挨」は迫ることであり、「拶」は切り込んでいくこと。
本来は、問答によって、厳しく迫り、切り込んで、相手の力量をはかる真剣勝負のことをいう。
だから、フニャフニャした形ばかりの礼は、挨拶とは言わない。
相手に丁寧に礼をすることは、自分に敬意を表するのと同じこと。
だれに対しても、背筋を伸ばし、真剣勝負の挨拶をしたい。 |
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