2011.12.14 |
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「ここだな」と力をこめる |
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新渡戸稲造氏の心に響く言葉より…
札幌で教えていたころ、学生と一緒に「ここだな」という観念を持つようにしようと相談し、
この「ここだな」という言葉が学生の間で一つの述語のようになったことがあった。
心理学、論理学から論じれば、善と悪の区別をはっきりさせることはなかなか難しい。
しかし、日常の事柄については善悪の判断に迷うことは極めて少ないはずである。
人の物を盗る、陰口をきくは悪であるし、人の役に立つ、恵みを与えるは善である。
これくらいのことは誰でもいつでも判断がつく。
判断がついたら、善い考え善い行いは実行に移す。
そして実行に移す時、「ここだな」と力を入れて行う。
また、怠惰に流れそうになったら、自分が日ごろ戒めているのは「ここだな」と反省する。
どんな些細なことでもよい。
自分が志を立てたことに接したら「ここだな」と思いさえすれば、志は継続され目的を達することができるはずだ。
小さなことを行うには大きな原則を応用すれば、いつしか原則の極意に達することができる。
ソクラテスが兵士として戦場に出た時、将兵全員が喉が渇き、水を飲みたがっていた。
幸い清流に出くわし、みんなわれがちに川辺に走って争って水を飲んだ。
ソクラテスはこの有様を見ていたが、ついに水争いの仲間には加わらなかったという。
このようなことでも、克己を実践するのは「ここだな」と思えば克己は継続され、いつしか自分のものとなる。
老人が車を引いて坂を登るのを見たら後ろから押してやる。
その時は同情という偉大な原則が胸に蔵されている。
道の途中で葬式にあったら一礼する。
赤の他人に礼をする必要はないと言う者がいるかもしれないが、
人として最後の時なのだから一礼に値するという考えで礼をする。
こうした些細なことでも実践を続けていけば、その中に含まれる原則が自然と会得されると僕は信じる。
『逆境を越えてゆく者へ』実業の日本社
ゴミが道や駐車場に落ちていたとする。
拾おうか、拾うまいか考えてしまうことは多い。
そんなとき、自分を励まし、行動を促す言葉、それが、「ここだな」。
朝、早起きしようと決めても、前の日が遅かったとしたら、いつまでもベッドの中でグズグズしてしまう。
自分で決めた約束は、都合のいい言い訳でいとも簡単に破られる。
多くの人は、自分には甘いが、それでいて人には厳しかったりする。
「ここだな」は、克己心や我慢を養う言葉。
くじけそうになったとき、自分を甘やかしそうになったとき、「ここだな」と力をこめて言ってみたい。 |
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