2011.11.10 |
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どこのどなたか存じませんが |
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小林正観さんの心に響く言葉より…
夫婦ゲンカをする人は、これは自分の妻だ、これは自分の夫だ、という誤解をしています。
その人は自分の身内で家族であるから、何をいってもいいと思っているのです。
でも、仮に隣のおじさんが毎月給料を運んでくれていると思ったら、文句を言ったりしないでしょう。
「どこのどなたか存じませんが、毎月、毎月私たちの家族が食べられるようにしてくださって、
ありがとうございます。
経済的に困らないようにしてくださって、ありがとうございます」
とただ手を合わせて感謝するしかありません。
「たまの土曜日くらいは、子どものキャッチボールの相手をしてよ」
と疲労困ぱいして帰ってきた夫に向かって、こう言ってしまう妻がいるようです。
隣のおじさんだったら感謝しかないのに、自分の夫であると、
なぜそんなにイヤみばかりを言ってしまうのでしょうか。
夫の側からすると、どこのどなたかわからないおばさんが、
朝知らないうちに現われて、食事をつくってくれる。
朝起きると味噌汁から湯気が立ち上っている、
夕方帰ってくると夕食を用意してくれているなんていうことは、有り得ないことです。
他人だったら、手を合わせて感謝するのに、なぜ夫や妻には感謝しないのでしょうか。
それは、家族という名の甘えでしょう。
原点に立ち戻って、というより、原点よりずっと前のほうまで戻って、
夫も妻も、「この人は、もともとは他人だ」ということを認識する。
そして、この他人の男性が私に対して、たくさんのことをしてくださることに感謝。
他人の女性が私に対して、たくさんのことをしてくださることに感謝。
『すべてを味方 すべてが味方』三笠書房
夫婦の間だけでなく、会社でも、親しい友人でも、人間関係には、必ず甘えが存在する。
「甘え」とは、慣れてしまって、お礼のひとつも言えず、逆に、毒づいたり、嫌味をいったりすること。
会社では、給料を払っているのだから、言われた仕事をするのは当たり前。
夫が、毎晩、家に帰ってくるのが当たり前。
妻が、食事や洗濯をしてくれるのが当たり前。
友人が、一緒に食事をしてくれ、話を聞いてくれるのが当たり前。
どんな親しい人であっても、元々は「縁もゆかりもない人」なのだ、と思ったとき甘えはなくなる。
そして、「当たり前」の出来事は、本当は奇跡のような有りえないこと、と得心したとき、そこに感謝が生まれる。
当たり前の幸せに、心から感謝できる人でありたい。 |
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