2011.9.28 |
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精神力を身につけると |
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齋藤孝氏の心に響く言葉より…
幕末の日本人に憧れる現代人は少なくない。
その理由は、幕末期の人が、心の問題にかかずらっていないからではないだろうか。
それよりも、国の行く末を考えることが第一だった。
しかもそのことについて、死の直前まで疑いを持たなかった。
その芯の強さ、精神の領域の大きさが私たちを惹きつけてやまないのである。
同時に、身体を鍛えることも忘れなかった。
確かに剣術を含む武道の場合、身体の動きを重視するため、
正座や蹲踞(そんきょ)など身体の習慣・ワザ化をセットで学ぶことになる。
それによって精神も鍛えられれば、その分だけ心で煩(わずら)わされることが少なくなる。
そのような修行を小さいころから積み重ねてきたために、青年期になると精神も成熟してくるのである。
サッカー界の“キング・カズ”こと三浦知良選手が私たちに見せてくれるのは、心ではなく精神だ。
例えば芸能人やスポーツ選手の中には、
ブログ等で「今日は落ち込んだ」とか「気分がよかった」などと心の様子を書き込む人が少なくない。
それはそれでおもしろいが、彼はそういう姿勢と一線を画している。
どこまでもブレない精神を発露しているのである。
三浦選手はどこまでもポジティブで明るい。
特にフランスから帰国したときには、「魂は向こうに置いてきた」とコメントしている。
自分はメンバーとともに戦い続けるという意味だ。
もちろん心の浮き沈みはあるだろうが、強靭な精神力、
三浦選手流にいえば「魂」がそれを押さえ込んでいるのである。
そういう姿を目のあたりにすると、私たちは「心より大事なものがある」
「心にこだわりすぎるとロクなことはない」ということに気づかされる。
まっすぐシンプルに“やめないよ精神”を貫けばいいのだと勇気づけてもらえるわけだ。
『日本人の心はなぜ強かったのか』PHP新書
現代は、心の問題をいいすぎるのかもしれない。
それは、心を病む人が多いからしかたがない面もあるのだが、
それに比して、「精神」や「精神力」ということが言われなくなった。
精神とは、気構えや気力のことだが、武道においては、精神と身体の動きや形はセットになっている。
武術はもともとは相手を倒すためのものだったが、それが武道という「道」に昇華したとき、精神性が加わった。
それは、茶道や、華道、芸道などにも通じる。
「道」のつくものには、すべて「形」がある。
柔道にしても、受け身の形を徹底的に繰り返して稽古することにより、
投げられても自然に受け身ができるようになる。
一度稽古して覚えた受け身などは、何十年と稽古していなくてもとっさに出てくるものだ。
そこには心が入り込む余地はない。
習慣とはある種の「形」だ。
例えば、毎朝仏壇や神棚に、祝詞やお経をあげることは、
かつての日本人の誰もが行ってきた論語や大学の素読(そどく)と同じ「形」だ。
素読は、意味がわからなくとも、声にだして繰り返し読上げることで、
武道の形と同じようにその精神なり、真髄が知らずに身に付いてしまう。
それは、大いなる精神の安定につながり、心がわずらわされることも少なくなる。
よい習慣を身に付け、自分の形を確立し、心が迷わない精神力を身につけたい。 |
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