2011.9.20 |
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捨てるものを間違えている |
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森まゆみさんの心に響く言葉より…
この前、タイの奥地に行ったとき、有名国立大学から研修に来ている男の子がいた。
とにかく弁は立つ。
英語もなんとかしゃべる。
目は輝いているし、一見やる気はあるので、
担当教授やNGOなどのいろんな人の紹介をたどってそこに来ることができた。
しかし、彼はちっともそのことをわかっても、恩義を感じてもいなかった。
自分の能力でアジアをまたにかけているという口ぶりだった。
しかしよく見ていると口ほど体は動かない。
人に何かしてもらうのは当然だが、面倒くさいことは嫌がり、人の感情は読めず、
人のために何かする気はないと見た。
環境だ、国際支援だといったところで、所詮自分の自己実現の手段でしかない。
そんな若い人が増えている気がする。
私に言わせりゃ、ただの恩知らず。
何か捨てるものを間違えているのではないか。
彼がどんどん“削除”しているのは「自分の役に立たない人の縁」。
しかし社会とはさまざまな人間のアンサンブルであって、そこには理解の遅い人も、お金のない人も、
体の不自由な人も、仕事のない人も、年老いた人も、愚痴っぽい人も、仲間に入りたい人も、
いじめられている人も、視野の狭い人もいる。
その中に自分は生かされてどうにかやっていることがわからないと、そもそも社会は成り立たない。
一緒にモンゴルの星空を見た人がくれた絵。
ラオスの市場で赤ん坊を背負った女性から買った布。
スイスのおばあさんからもらった毛糸のソックス。
二度と会わないだろう人との縁(えにし)。
その“片付かなさ”の中を生きるのが人間の宿命ではなかろうか。
『おたがいさま』ポプラ社
「無用の用」という荘子の言葉がある。
一見すると何の役にも立たないようなことが、実は大きな役割をはたしている。
当面は何の役にも立たないが、好きで続けていた趣味や勉強が、ある時急に役に立って、
人生の危機を救った、などということは多くある話だ。
効率を考え、自分の役に立つ人だけを選んで大事にして、
役に立たない人の縁をどんどん切り捨てていく人は後で必ずしっぺ返しがくる。
「袖振り合うも多生(たしょう)の縁」
見知らぬ人と、たまたま道で袖を触れあうようなことがあったとしても、
それは前世からの因縁によるものだという。
仏教では、「多生」とは、積み重ねた多くの前世のことをいうが、だからこそ、
人と人との縁は、単なる偶然ではないのだから大切にしなければならない、という教え。
「二度とない人生だから
一輪の花にも無限の愛をそそいでいこう
一羽の鳥の声にも無心の耳をかたむけていこう」
という坂村真民さんの詩がある。
どんな小さなご縁にも、無限の愛をそそげる人でありたい。 |
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