2011.9.11 |
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打つものも、打たれるものも |
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菅原義道和尚の心に響く言葉より…
東京に住む檀家の一人から電話があった。
「どうもしばらくでした。ごぶさたしております」に始まって、私、家庭的にこういう悩みがありますとか、
事業もうまくいかないためにこういう問題をかかえております、とかいって、延々と愚痴をならべていた。
私は「そんなことどうでもいいじゃないですか。そんなことを苦にしておってどうしますか。
あなた、明日死ぬんですよ」と答えた。
すると、その人も禅ということのわからない人ではなかったから、
明日死ぬんだというその言葉で、なにか感じてくれたらしく、
「ありがとうございます。
私の申しあげましたようなことは、愚かなことですね。
全く、どうでもいいことかもしれません。
明日死ぬと思えば全てのことは解決します」
といって電話を切った。
「世の中にこだわることもなかりけり、我もまもなく死ぬと思えば」
昔、良寛上人が、玉島の円通寺で修行をしていた時のこと。
ある田畑の中で座禅をしていると、百姓が、彼をスイカ泥棒と間違えてさんざん打ちのめしたことがあった。
その時、良寛は、なにも弁解せず、
「打つものも、打たれるものも共に幻の如く、夢の如く、また露のようなものだ」、
といった内容の歌を詠んだそうである。
みんな直き死ぬんだ、ということをもっと自覚すれば、下らない面子(メンツ)などにこだわっていられない。
『死んでもともと』三笠書房
禅には、よく死という言葉が出てくる。
これは、死ぬことを礼賛しているわけではなく、生をより際立たせるために言っているだけのことだ。
よく死にきることは、生ききることと同義語だ。
病気も、事業の失敗も、リストラも、貧乏も、すべてこの世でのこと。
明日死ぬとわかった途端に、全てがカラーではなく、セピア色に見える。
どんなこだわりも、面子も、財産も、美貌も、あの世には持っていけない。
打つものも、打たれるものもないからだ。
だからこそ、この生を鮮やかにするためには、この今を一所懸命に生きるしかない。
明日はないのだ、という気持で、この瞬間に生きてみたい。 |
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