2011.9.2 |
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どんな立場になろうが |
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土光敏夫氏の心に響く言葉より…
われわれのサラリーマン生活は、みようによれば、最初の10年が人に使われる立場、
中の10年が人に使われながら人を使う立場、後の10年が人を使う立場、と移り変わってゆく。
その間、立場の違いというものが、いかに人間の考え方や行動を束縛することか。
多くの人は身につまされて実感できるはずだ。
それを反省してみて、一応大過なく切り抜けて来れたといえる人は偉い。
そのような人が信奉してきた行動の基準は何であろうか。
私はそれは「使われる立場にいるときには使う立場にも考えを及ぼし、
使う立場にいるときには使われる立場を思いやる」ということではなかったかと思う。
現役を退いたら…
はじめタービン会社を出るときは、停年になったら掃除夫でもいい雑役夫でもいい、
工場をきれいにするとか、そういう仕事をしたい、あるいは門番にしてくれ、というようなことをいっていた。
そしたら、うんと客にサービスするから、ともね。
それが世の中というもんじゃないかね。
家庭でも初めにじいさんの代がある。
年老いて息子にゆずった。
そうなれば経理や売る売らないは息子がやる。
じいさんは、垣がこわれれば垣を直すとか、屋根が漏れれば直すとか。
社会もそういうもんじゃないかと思う。
まあ、現役を退いたら、ぼくは社会的なサービスをやりたい。
ずっとそう思ってきた。
『土光敏夫 信念の言葉』PHP文庫
人には、色々な立場がある。
ある時は、会社の社長だが、家に帰ると夫という立場。
タクシーや電車に乗れば乗客だし、道路を歩いていればただの通行人だ。
しかし、タクシーに乗ってもなお、偉そうに社長風をふかしたり、大会社の社員として傲慢にふるまう人もいる。
立場が変われば、役割も変わる。
どんなに偉い役職についていたとしても、辞めてもなお、それを引きずって生きていくのは恥ずかしい。
「喫茶喫飯(きっさきっぱん)時に随(したが)って過(す)ぐ」という禅語がある。
お茶を飲むときは無心にお茶を飲み、食事をするときはただひたすら食事をする。
社長の時は社長を、掃除夫のときは掃除夫を、門番の時は門番を、ただひたすらに、淡々と職をまっとうする。
どんな立場になろうが、こだわりなく、飄々(ひょうひょう)と、時に随(したが)って生きて往きたい。 |
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