2011.8.7 |
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幸せって何だろう? |
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植島啓司氏の心に響く言葉より…
あるインタビューで、矢沢永吉氏はこう語った。
『あのね、40くらいになったら、「自分ってどういうやつなんだ?」って考えるじゃないですか。
僕はね、なんでこんなにがんばって走ってこられたのかと思ったの。
それはね、なにか一つ掴んでカタチにしたら、すべてが解決できると思ってたから。
僕はずーっとどこか寂しかったんだけど、その寂しさも、成功したりお金持ちになったら、
全部クリアにできると思ってた。
みんなが振り向いてくれるこの位置までいけたら、不安な部分も全部クリアになると思ってた。
ところが、ちっともクリアにならなかった。
飯が食えるようになって、いい車転がして、俗にいう表面的な成功というのは、27で手に入れましたよ。
だけど、ちっともハッピーじゃないの。
なんで?
神様、僕に言ったじゃない、成功手に入れたら、今までの不安なこともクリアにしてくれるって。
「なんで?」と思ったとき、「気持がいい」とか「ハッピー」というのは、別のレールがもう一個あって、それは仕事で手に入れたり、成功で手に入れるものではないんだ、ということに気づいたんですよね。
そのときからです、「幸せって何だろう?」って真剣に考え始めたのは』
お金がなければ、お金さえあれば幸せになれると思うし、病気だったら、
病気さえ治れば(健康ならば)幸せになれると思う。
同じく、監獄に入れられたら、ここさえ出られれば、幸せになれると思う。
だが、それは果たして本当に自分が目指す幸せなのだろうか。
おそらくそれは生きる目的ではないはずだ。
もしそうなったらなったで、また次々と別の克服すべき対象が生まれてくるだろう。
『偶然のチカラ』集英社新書
病気さえ治れば幸せになる、と考えている人は、治った後のことはあまり考えていない。
お金さえあれば幸せになる、と思っている人も同様だ。
刹那(せつな)刹那で、その場をしのげたらどんなに楽だろうと、次のことは考えていない人がほとんどだ。
お金はあるにこしたことはない。
しかし、いい車に乗りたいとか、お金を稼ぐことが目的となっている人は、
それを達成したら、「こんなものか」と思うだけだろう。
人は、「何のために、この世に生を受けたのか」を、知る必要がある。
次々にやってくる難問や、困難も、「この世に遣わされた意味」を知るために起こる。
分からなければ、さらにもっと大きな問題となってやってくるだけだ。
「成功が手に入ったからといって、今までの不安が全てクリアーになるわけではない」
何のために生きているのかを知り、感謝の心で毎日を過ごしたい。 |
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