2011.7.25 |
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茶碗からこぼれたお茶 |
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ロジャー・フォン・イーク氏の心に響く言葉より…
グーテンベルグはブドウ絞り器と硬貨打印器とを組み合わせて、新しいアイデアを生み出した。
「いくつかの硬貨打印器にブドウ絞り器の圧力をかけて、紙のうえにその印がつくようにしたらどうだろう?」。
こうして導かれた組み合わせが、印刷機と組版である。
ノラン・ブッシュネルはテレビを見ながら考えた。
「ただ見ているだけではつまらない。テレビ受像機を遊び相手にして、反応させてみたい」
その後まもなく彼はテレビ受像機が打ち返してくるピンポン・ゲーム「ポング」を考え出し、
ここからビデオゲーム革命がはじまった。
ある日ピカソが外に出ると、古い自転車が目にとまった。
彼はしばらくそれを眺めていたが、やがてサドルとハンドルバーをとりはずし、
それらを溶接して雄牛の頭をつくったのである。
視点を変え、知識と経験を遊び相手にすることによって、
私たちは平凡を非凡に、異常を正常に変えることができる。
グーテンベルグは、ブドウ絞り器がブドウだけを搾ること…「正解」…を忘れた。
ブッシュネルは、テレビ受像機と遊ぶというアイデアが「ばかげている」ことを忘れた。
ピカソは、自転車のサドルは腰掛けるものであるという「ルール」を破った。
知っていることを一時的に忘れる能力がなければ、私たちの脳は既製の解答で一杯になってしまい、
新たな方向へ道をひらくきっかけとなるような疑問を持ち出すことができなくなる。
頭のこわばりをほぐすには、一時的にそれらを忘れ去ること。
いわば、思考の器を空にすることである。
「発明は、ほかのだれとも同じものを見て、何か違うことを考えることによって、もたらされる」
『頭にガツンと一撃』(城山三郎訳)新潮社
頭のいい学者が、ある有名な禅僧に会いに行った。
学者は、じっと黙っている高僧を相手に、口角泡を飛ばし、一方的に話しまくった。
充分時間が経った頃、高僧は学者の茶碗にお茶をそそいだ。
茶碗のお茶が一杯になっても、なお注ぎ続け、終いには床にお茶がこぼれ出した。
学者がそれに気づき、
「お茶がこぼれてます。もうおやめください」とはらはらしながら言った。
すると高僧は、
「あんたの頭の中はこの茶碗といっしょじゃ。頭の中は知識でパンパンで、とても人の話を聞く状態ではない」
誰かの話を聞くときは、自分の頭の中を空っぽにしなければ、何も入ってこない。
つまり、捨てること。
禅ではそれを、「放下著(ほうげしゃく)」と言う。
しがらみや、執着、知識や悟りさえ、捨て去れ、放り投げろ、ということだ。
一切の束縛やとらわれを捨て去ったとき、人は自由自在となる。
臨機応変、融通無碍(ゆうずうむげ)、縦横無尽、奇想天外だ。
誰かと同じものを見ても、何か違うことを考え出せるような、自由自在の人でありたい。 |
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