2011.5.22 |
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片隅で生きる |
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曽野綾子氏の心に響く言葉より…
片隅に生きていれば、少々の悪癖も問題にならないことが多い。
女癖の悪い人が、総理大臣になったら、その性癖は世界的な恥として知られてしまう。
しかし片隅に生きていれば何でもないのだ。
片隅に生きるということはほんとうにすばらしいことなのだ。
悪の影響は薄まり、思い上がるということなく済み、かつ、基本的な自由を謳歌(おうか)できる。
自由のない生活など、人間の基本的な幸福さえ拒否されているということだ。
そのような職業(例えば政治家)に就きたがる人の気持が私にはどうしてもわからない。
ささやかな悪行が、ささやかにできる場所にいないと、人間は囚人になってしまう。
人と違って特別だということは、有名にもなるしいいことのように見えるが、
当人にすれば、平凡ほど偉大な幸福はない、と感じているだろう。
時々羽田空港などにお相撲さんやバスケットの選手などがいると、私もチラッと見たくなる。
選手達はもう慣れているのかもしれないが、あれではろくろく彼女も連れて歩けない。
人の視線というものは、時には温かく、時には緊迫感の原因になる柔らかな凶器であろう。
今さらながら、多くの人に与えられている平凡という偉大な幸福に対して、
私たちはあらためて感謝しなければならない。
『「いい人」をやめると楽になる』祥伝社黄金文庫
最近は、ホテルや飲食店に勤めている人が、twitterやブログなどで、
有名人のお忍びでの来店や、プライバシーを気軽に書いてしまうような事件が頻発している。
自分の書いたものは、そんなに影響がないと高をくくっているのかもしれないが、
そういう情報はあっという間に広がり、
勤務しているホテルや飲食店も倒産に追い込まれるくらいのダメージを受ける。
そして、書いた本人の家族構成やら顔写真等の、プライバシーも瞬時にして暴(あば)かれるのが通例だ。
何気なく書いたブログやtwitterなどが社会を揺るがすような凶器にもなる、
ということを我々は知らなければならない。
有名人や政治家は常に、人から見られるストレスにさらされている。
それは有名になることの代価とも言える。
我々一般人も、ブログ等を使うと瞬時にして、悪名高き「時の人」になりうる可能性がある。
情報を発信している人の中には、有名になりたいとう漠然とした願望があるのかもしれないが、
覚悟のない人が、有名人になることは危険だ。
有名になるには、それ相応の犠牲が必要となる。
社会の片隅で平凡にしっかりと生きる、という幸せに我々はもっと気づかなければいけない。 |
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