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2011.5.13.

名人上手といわれる人でも

外山滋比古(とやま しげひこ)氏の心に響く言葉より…

「ハナシ家の方でも、あがるっていうことはあるものですか」
ある有名な落語家と仕事でいっしょになったとき、仕事を終えて、いっぷくした席で、きいてみました。

「ありますとも。しょっちゅうあがってますワ」
「毎日のように高座へあがっていらっしゃるでしょうに、それでもあがらなくはならないのでしょうか」

「いつまでたってもあがる人がすくなくありませんな。亡くなった文楽師匠なんか晩年まで、
ずっとあがってましたものね」

「名人と言われるようになってからでもですか」
「出をまっているとき、手のひらに何か指で字を書いているのです。
どうしてかというと、あがらないおまじないをしていたらしいですね」

「実際にあがることがありましたか、文楽師匠?」
「ええ、ときどき、ありましてね。そうなるともうメタメタですわ。
まるでハナシにもなにもなりはしません。有名でしたね、師匠のあがるの」

「おどろきました。ハナシ家さんには、あがるなんていうことはないものか、と思っていましたが」

「いや、あがる方が芸も伸びるのではありませんか。
妙に度胸のいいのは、あるところまでは早くいきますが、そこから先、なかなか進歩しないようです」
「あがるのは神経のこまかい証拠なのでしょうか」
「そうかもしれません。わたしなんか、あがりかたがすくないから、芸もようあがらんですわ」

それで思い出したことがあります。
いつか、亡くなった越路吹雪さんがもっとも充実した芸を見せ、
人気絶頂のころのこと、テレビで自分の芸を語ったことがありました。

相手をした人が、
「越路さんくらいのキャリアのある方になれば、もうあがる、なんてことはないでしょうね」
とききます。

するとすかさず、
「とんでもありません。いつもあがります。それがひどいんです。
公演の一週間前くらいからあがり始めます」
「一週間前からですか。どんな風になるのです」

「食欲がさっぱりなくなります。そして、そわそわ落着かないのです。
家のものに悪いんですけど、どうにもなりません。
いつまでたってもこれはすこしもなおりませんね」

『心と心をつなぐ話し方』PHP文庫


名人上手(めいじんじょうず)は「あがらない」、と思っていたがそうではないようだ。
あがるくらいの人の方が、あとから伸びるという。

これは職人の世界でも同じで、入ってきた頃は不器用で、覚えるのが遅く、
箸にも棒にもかからなかった人が、10年たってみると、
見違えるようにしっかりした仕事をするようになっている、などという例はよくある話だ。

器用貧乏の、なんでもそこそこ出来てしまう人は、
仕事をバカにしたり、眼前の仕事に集中しないことが多い。
反対に、ヘタクソだろうが、たどたどしかろうが、それしかないと一途に没頭する人は、結局は長く生き残る。

どんな名人であっても、駆け出しの頃は誰でも高座や舞台でドキドキする。
失敗したらどうしようという不安や、うまく演じようとする気負い、
なんとか喜ばせようとするあせり、があるからだ。

初心者の頃の、ハッとする感性をいつまでも持ち続けられる人は、初々しさを忘れない人。
どんなに年齢を重ねていようと、初々しい人は魅力的だ。
素朴で、飾らない素(す)の魅力がある。

名人上手も、舞台ではあがるという。
まして、素人ならなおさらのこと。
スピーチでは、あがって当たり前、の気持ちでのぞみたい。



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