2011.4.8 |
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いまこそ必要な宗教心 |
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藤原正彦氏の心に響く言葉より…
江戸時代、お伊勢参りはすこぶる盛んで、多い年には500万に達したらしい。
当時の人口を考えれば5人に1人である。
庶民に旅行は許されなかったが、寺社参拝のためなら許された。
白衣に菅笠(すげがさ)、筵(むしろ)を背負っての旅立ちだった。
参宮者を助けるのは功徳ということで、街道沿いの裕福な商店や寺は食事や宿泊をただで提供したという。
何と美しい日本の風景だろう。
彼らは各地でのお寺参りやお宮参りで、私と同じように無病息災や加護を祈り感謝を捧げたのだろう。
彼らの意識に、宗派の違いや教派の違いはなかったろう。
神と仏の違いさえなかったのではないか。
日本人が神仏に手を合わせるのは、宗教ではなく宗教心である。
戦後、公立学校では、宗教教育が禁止されたはずみで、宗教心までが切り捨てられた。
神仏に手を合わせるという先祖代々の美風、日本人の真髄といってよいものが捨てられたのである。
何か人間をはるかに超えた存在にひざまずく、
という心は物質主義、傲慢の氾濫する現代にこそ、求められる。
真髄を失った国民は風にそよぐしかない。
『この国のけじめ』文藝春秋
今、この震災後、多くの方々が「日本は大きな転換の時を迎えている」、と言っている。
第一は、明治維新という大きな革命ともいえる大変革。
続いては、戦後の焼け野原からの経済発展。
そして、今回の大震災だ。
多くの覚醒した人たちが感じているのは、今回の震災は、「精神の復興」ということだ。
戦後、経済発展にともない、日本古来の美徳や、美風の多くが切り捨てられた。
しかし、今テレビで見ていると、涙のでるような素晴らしい発言をする被災者の方々が多くいる。
それは、大人や年配の方たちだけでなく、若い中学生や高校生までもがそうなのだ。
「多くの仲間が亡くなったが、天をうらまず」と卒業式の答辞の中学生。
家も、車も、そして家族までもなくした方が、「自分は生かされている、何か意味がある」。
「助け合い」「絆(きずな)」「節約」「公共心」「我慢」…
精神の復興でその芯となるものは、宗教心だ。
何かの宗教に入信しろということではない。
人知を超えた偉大なものにひざまずくという宗教心のことだ。
このことが、戦後の教育では切り捨てられ、
かくして、宗教心を語ることまでもが、タブーとなってしまった。
かつて、伊勢神宮を訪れた西行法師が、こんな歌を詠んでいる。
「なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」
何があるのか、どなた様がいらっしゃるのか、わからない、
しかしながら、なぜか、かたじけない気持で胸がいっぱいになり、涙がとめどなく出てくる…
復興を祈り、多くの亡くなった方々の魂を鎮め、
そして今、生かされていることの意味をかみしめ、感謝する。
いまこそ、宗教心が必要とされている。 |
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