2011.2.21 |
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スランプのひまなし |
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城山三郎氏の心に響く言葉より…
慈善事業から企業に至るまで、近代日本の枠組みは、ほとんど渋沢栄一の力を借りている、といっていい。
その死に当って、市井の一運転手が、
「あの人には、なんとなく世話になった気がする」
といい、立場が逆の左翼系の歌人まで追悼歌をうたった、という人である。
91年のその生涯には、何度か、危機というか、逆境があった。
そこを克服したのは、何よりも彼の人一倍旺盛な知的好奇心のせいであった。
倒幕運動が露見して、命からがら京都の一橋家に逃げ込んだとき、
彼は雇われてもいないのに、一橋家とは何か、毎日どんな生活が行われているか、
台所はどうなっているか等々、知り得る限りのことを勉強した。
彼が一橋慶喜の目にとまるようになったのは、逃げ込んできた一百姓にすぎないのにもかかわらず、
実によく一橋家のことを知り、どうあるべきかについて意見を持っていたからである。
二度目の挫折は、使節団の随員として、パリへ行かされることになったことだ。
攘夷論者でもあった渋沢としては、心外な人事であった。
だいいち、パリがどこに在るのかも知らなかった。
その渋沢がパリに着くと、しかし、開国派の侍以上に、パリのことを猛勉強する。
朝起きてから、夜寝るまで、目につくもの、すべてを記録してかかる。
彼が日本に戻ってきたとき、すでに幕府は倒れ、彼は失業者の身であったが、
彼がパリで猛勉強したというそのことのために、大蔵省に招かれて、中堅幹部になる。
だが、その大蔵省は薩長主導型で、ろくな仕事は与えられない。
すると、渋沢は今度は「改正掛」という勉強会をつくって、仕事の終わった後、
外国の制度などについて、若手たちといっしょの勉強を始める…。
そうした渋沢の人生をみていると、逆境に置かれても、逆境を意識しているひまがない、という感じである。
もちろん、スランプに陥る時間もない。
どんな仕事に就かされても、どんな土地に行っても、必ずその行く先には勉強することがあるはず。
日頃から、知的好奇心のために、せっせと燃料を補給するくせをつけておくことである。
『打たれ強く生きる』日本経済新聞社
誰にも、逆境もあれば、スランプもある。
同様に、深い谷もあれば、高い山もある。
古来より、そのスランプという、谷の時期は、「充電のとき」と言われている。
来るべきチャンスの時にそなえ、ジタバタ動かず、勉強する時だ。
左遷、倒産、解雇、降格、という逆境のときには気持ちが萎(な)え、失意の底に落ちる。
人は不運を嘆き悲しんでいるときは、行動をおこすことができない。
しかし、どん底という、「底」に着いたら、次のステップに向け、充電が必要だ。
どんな逆境にさらされようと、知的好奇心を失わず、「スランプのひまなし」の気持で生きてみたい。 |
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