2011.2.5 |
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毎日の出来事はみな試験 |
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致知出版社長藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
新潮社を創業した佐藤義亮(ぎりょう)氏に、浅草で商いを手広く営む知人があった。
ある晩、その人の店が全焼した。
翌日、佐藤氏が見舞いに駆けつけると、なんと、知人は酒盛りをして騒いでいるではないか。
気が触れたか、とあきれる佐藤氏に、知人は朗(ほが)らかに言った。
「自棄(やけ)になってこんな真似をしているのではないから、心配しないでください。
私は毎日毎日の出来事はみな試験だ、天の試験だと覚悟しているので、
何があっても不平不満は起こさないことに決めています。
今度はご覧のような丸焼けで、一つ間違えば乞食(こじき)になるところです。
しかし、これが試験だと思うと、元気が体中から湧いてきます。
あなたもぜひ一緒に飲んでください」
その凄(すさ)まじい面貌(めんぼう)は男を惚(ほ)れさせずにはいられない、と佐藤氏は言っている。
知人は間もなく、以前に勝る勢いで店を盛り返したという。
運とツキを招き寄せる法則は古今に不変である。
『月刊 致知』(致知出版社)2011年3月号より
人はみな何回も生まれ変わるという、輪廻転生(りんねてんしょう)という考え方がある。
アメリカでは、これをリーンカーネーションというが、あらかじめ自分の解決すべき課題を持って、
この世に生まれ変わってくるというのが、輪廻の考え方だ。
今生では、自分の課題を克服するのにふさわしい、
両親や兄弟、家庭環境、社会環境を自ら選んで生まれてくる。
だから、次々起こる問題も、自分が計画し、作った試験問題。
自分が作った試験問題に、文句をつけたり、愚痴を言ったりするのは滑稽(こっけい)だ、
と思ったとき不平不満はなくなる。
他人やまわりのせいだと思っているから、文句を言うことができる。
人は、深く諦観(ていかん)したとき、様々な困難を乗り越えることができる。
諦観とは、あきらめることだが、投げやりで捨てばちな「あきらめ」ではなく、
「仕方なし」、「やむを得ず」と肯定的に納得すること。
次々とやってくる難問や困難を、「これは、自分で作った試験だ」、と心から諦観し、
「ああ、なるほど、そうだった」と深くうなずく。
やってくる様々な問題を、天の試験と思うもよし、己が作った試験だと思うのもいい。
人やまわりのせいにせず、にっこり笑って受け止める人に、運とツキはやってくる。 |
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