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2011.1.19

江戸の老人の評価基準

植月真澄(うえつきますみ)氏の心に響く言葉より…

江戸の平均寿命は、40歳前後というところだったようだが、
当時の乳幼児の死亡率が異常なほど高かったことを忘れてはいけない。

12代将軍・家慶(いえよし)は14男13女を設けたが、成人したのは家定一人だったほどである。
したがって、乳幼期を無事に生き抜けば、その後の寿命はもう少し長かったと思われる。

医療史の研究で知られる立川昭二・北里大学名誉教授が
『日本史年表』に記載されている江戸期の人物の死亡年齢を平均したところ、60代後半になったという。

よく名を知られた人物の死亡年齢は、
近松門左衛門72歳、新井白石69歳、徳川光圀73歳、貝原益軒85歳、杉田玄白85歳、
上田秋成76歳、良寛74歳、滝沢馬琴82歳、葛飾北斎90歳、伊能忠敬74歳(年齢は数え年)と、
もちろん現在よりは短いが、想像よりはずっと長命だったとわかる。

現役から引退するのは、40代半ばから50歳ごろ。
第二の人生でもう一仕事した人も少なくない。

伊能忠敬は50歳で家業を息子に譲ると、それまで抑えていた、好きな天文学の研究を始めている。
その縁で、自らの足で歩いて日本全国を歩測し、
精巧な日本地図を完成するという偉業を成し遂げたことはあまりも有名だ。

西鶴も、引退後に作家家業へと転じているし、
『翁草(おきなぐさ)』という大作を残した神沢杜口(かんざわとこう)も、
若いころは与力として働き、40歳で与力職を娘婿に譲った後、念願の執筆活動に入っている。

杜口(とこう)は78歳のときに、天明8年の大火で、この原稿の大半を消失するという憂き目にあうが、
ここであきらめることなく、ふたたび筆をとって、3年半後に現在の大冊を完成させている。
単純に計算すれば、1年に900ページずつ書き上げたことになる。
しかも年齢は80歳を超えるころだ。

江戸において、老人は「どれだけ若者を笑わせたか」「若者を引き立てたか」「良きものを伝承したか」の
3つで評価されたという。

『江戸の「粋(いき)」』夢新書

我々は、江戸時代の平均寿命は短かった、と多くの人が思っているが、
それは乳幼児の死亡率が異常に高かったから全体の平均年齢を押し下げてしまっているだけのこと。

死因の大部分は、当時の医学が全く無力であった、
疱瘡(天然痘)や麻疹(はしか)などの伝染病だったという。

杜口(とこう)と同様の話は、フランスにもある。
カーライルは数十年を費やして書いた「フランス革命史」が友人の不始末で燃えてしまったが、
気力を奮い起こして、再び書き上げたという有名な話だ。

そのときのカーライルは、40代だったが、杜口(とこう)はその倍の80歳。
ほとんど完成した文章を消失し、さらに書き直すのは並大抵のエネルギーではないが、
いかに杜口(とこう)のパワーが並外れていたかが分かる。

今の世では、40歳を過ぎて隠居するなどと言ったら笑われるが、
江戸時代は、引退してからほとんどの人がもう一仕事をしたのだ。
江戸の老人は途方も無くエネルギッシュだった。

「どれだけ若者を笑わせたか」、「若者を引き立てたか」、「良きものを伝承したか」という、
この3つの評価は年配者だけでなく、部下や後輩を持つ全てに者に言える言葉だ。

後輩や部下を、喜ばせ、笑わせる。
年下の者を、誰かに紹介したり、斡旋して、引き立てる。
後継者や後輩に、自分の持ってる技術や情報を惜しみなく教える。

俺が俺がの「我(が)の強い人」は、この3つのことはできない。
自分が主役になるのではなく、誰かを引き立て、伸ばす役割が果たせたら、幸せだ。



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